子供に持たせてはいけない刃物

 どうも、日銀が金融政策を本気になって採用すれば、円高不況も、赤字国債の解消も、失業問題や社会保障財政もいっぺんに解決可能になるかのような物言いがしばしばある。半分くらいはその通りと思いつつ、またあえて挑発的に言っていることも理解しているつもりだが、最近こうした物言いがますますエスカレートしているのが気になる。経済の素人は、極論に懐疑的に接する良識的な人ほど、こうした議論を警戒するようになるだけだろう。

 自分の乏しい経済学の理解では、金融政策ができるのは「雇用が増えやすい経済環境をつくる」ところまで、つまり畑に水や肥料をまくといったところまでで、それが実際に十分かつ健全な雇用と所得といった果実をもたらすかどうかは、慎重に分けて考えるべきだろう。何度も言っているが、金融政策で真っ先に恩恵をこうむるのは、ホリエモンのような投資と消費の意欲が旺盛な若手経済エリートであり、貧困や過労の最前線にいる人にとっては、短期的には生活の苦痛が増大する可能性のほうが高い。とりわけ、「厳しい競争に耐えぬく力が経済の活力を生む」とか「成長抜きの分配政策はバラマキでしかない」といった考え方をもつ政治勢力の主導で、金融政策が推進されることになればそうである*1。しかし、金融政策も再分配の一種であるとか、失業を解消するのだから貧困者にやさしい政策に決まっているだろうとか、そういう不用意な物言いがあちこちで散見される。

 経済学というのは「子供に持たせてはいけない刃物」のようなところがあり、貧困に対する素朴な憤りから出発したはずが、経済学を通過すると、結果的に貧困者の頬をひっぱたくような結論になってしまうことがしばしばある。とくに農業や雇用の問題に関する経済学系の人たちの議論を聞くと、素人的には「正論かもしれないが、いまのデフレ不況下でそれをやったら自殺者が増えるだけじゃないか」と疑問を感じることが少なくない。個々の経済学者が冷徹・冷酷だということではなく(むしろ主観的には善意の人たちであることは間違いないだろう)、外から見ていると経済学にはそういう危うい面をはらんでいるように思われるということである。

(追記)

 一頃の社会学者(とくにフェミニスト系)の中にあえて極端なことを言って、その極論に噛み付いてきた人を、「真意を理解していないバカ」ともぐら叩きのように叩くという、あまり上品ではない戦略をとっていた人がいたが、見ていると同じことをやっている経済学系の人たちが少なからずいるような気がする。しかも、戦略的にというよりも素朴にやっている感じがする。

 「経済学的にそれはありえない」という物言いもしばしばあるが、それは金融政策のような純経済学的な問題はそれでいいとしても、雇用・農業・貧困のような、経済学以外の専門知を動員しなければならない問題を語るときには厳に慎むべきである。人口の問題を安易にマクロ経済の問題に直結してはいけないのと同じ意味で*2、金融政策は雇用・失業の問題とは慎重に切り離して論じるべきだろう。

(さらに追記)

 再分配の問題を考えている左派が、ある程度「経済音痴」なのは仕方がないと思う*3。再分配政策の目標は「最小不幸」であり、経済学の追求する「最大幸福」とは根本的に目標が異なるからである。再分配政策では、生産も消費も投資もしない障害者や後期高齢者と年商数億の企業経営者との社会的権利や尊厳を、等しくするようにしなければならない。こういう問題は、経済学のツールでは分析できないので、基本的に別の専門家の仕事になる。そういう専門家を、「経済音痴」と批判してもはじまらない。私から見ると、経済学者の多くは「福祉音痴」であるが、それはそれで仕方ないことだと思っている。問題は、しばしばその中途半端な知識で福祉の問題を語ってしまい、それが福祉の専門家による非生産的な「市場原理主義」批判を惹起してしまっている(それがまた経済学者の批判の的になる)ことである。

 経済学的に福祉を根拠づけようとする議論もあるが、印象としてはやはり「無理がある」ように感じる。そんな無理をする前に、政府が扱うべき政治の問題として簡単に考えたほうがいいと思う。

(もう一つ追記)

 ただ最も性質が悪いのはある種の経済学者ではなくて、少し前まで社会学現代思想など、経済学への根本的批判を多く含んでいた本を熱心に読んでいたような人が、最近になって、にわかに経済学的な論理を振りかざすようになっていることである。過去の自分の先生の著書を批判しているツイッターの記事があってさすがに気分が悪くなったが、社会学者たちの反経済学的な論調は何も今にはじまったことではないだろう。

 経済学というのは極めて「官僚的」(つまり専門分野には熟知しているが、それ以外の分野には踏み込んではいけないことが要請される)な学問であり、逆に社会学現代思想はむしろそうした細分化した知識を克服するための学問であって、実際、社会学現代思想の根本部分には経済学批判(引いては近代性批判)が含まれている。ここらへんの「矛盾」を簡単に克服できてしまう「頭の良さ」というのは、西洋の学問をよく悪くもすいすいと吸収してきた日本の知識人に向けられてきた批判に通じるものがある、と言ったら言い過ぎだろうか。

*1:事実、経済学系の人たちの最近の動きを見ていると、そういう傾向がますます強まっている。別にそれが悪いというつもりはないが(個人的に無条件に支持できなくなるだけ)、過去に言ってきたことと根本的に矛盾しているのではないか、という知的誠実性への疑問は強く残る。

*2:藻谷浩介氏は中心市街地の問題を人口学的に論じていて、それは物凄く説得力があったのだが、『デフレの正体』ではこの「成功体験」をマクロ経済という畑違いの分野にまで適用してしまった。この本で藻谷氏の中心市街地問題の議論にまで傷がつくとしたら残念なことである。

*3:自己弁護のようで恐縮だけども。