誰も代表できていない

 前回のエントリは、ややもすると国民の政治的見識の低さを嘆くようなものに受け取られがちだが、そうでは断じてなく、あくまで国民が自分で何を選択しているのかわからなくなっているような、政治的な状況を問題にしたものである。

 たとえば、いま日本の世論で、比較的関心の高いテーマは年金であるが、テーマの性質上は必然的に「大きな政府」を志向するはずである。つまり、年金財政が厳しくなっているとしたら、年金を負担している現役世代の人口が減少して雇用が不安定になっているからであり、だから少子化対策として家族への公的福祉が、雇用の安定化のためには政府による職業訓練や雇用創出の拡充が、さらには雇用の安定化の前提として教育の公的保障の充実が不可欠になる、という風に議論が展開しなければならない。これらの政策を前提とした増税は、たとえ消費税であっても、間違いなく社会全体の負担を緩和させることになる。自分の知る限り、真面目に社会保障の問題を考えている人たちは、多少なりとも似たような結論になっている*1

 ところが、今の年金世論の政治的な帰結はそうなっておらず、むしろ「小さな政府」を志向するものになっている。つまり、官僚と公務員が途方もない無駄遣いをしているとか、そして「経済成長」の時代でもないのに大盤振る舞いの予算を組んでいるとか、そういう問題が自分たちの年金を不安に陥れているという理解の下で、公共部門の雇用を減らし、雇用関連の事業を仕分けし、研究・教育の予算を減らすことで、年金財政を埋め合わせようとする政策が支持されている。言うまでもなく、これは「タコが自分の足を食う」という以外に表現のしようのないものであり、かえって「年金破綻」を現実にしてしまいかねないような政策である。

 これは、政治家や有権者が意図してそうなっているというよりも、日本の政治的な構図のなかで、否応なくそのようなねじれが生じてしまっていると考えられる。要するに、年金に利害関心を有する人たちを代表する団体があり、それがある特定の政党と関係し、そこに社会保障の専門家が加わって「大きな政府」「福祉国家」を代表する政治勢力を形成するという当たり前の手順がなく、「年金破綻危機」と「官僚の無駄遣い」報道に連日のように接している(言い方は悪いがテレビしか見ることがなくなっている)年金生活者の憤りが、そのまま官僚バッシングを繰り広げる「小さな政府」志向の政治勢力を結果的に支持している印象がある。それに加えて、「今の若者は仕事をえり好みしている」という、貧困の時代を知っている高齢世代の素朴な偏見もある。

 国民が愚かなのでは断じてなく、国民の利害関心を適切に反映して対立軸を形成するような仕組みが、今の日本の政治システムのなかに不在なのである。よく人口と投票率で若者が構造的に不利に立たされているという意見があり、自分も若干はそれに共感するのだが、では年金生活者層の利害が今の政治にきちんと代表されているかというと、そうであればもう少し話は簡単なのだが、必ずしもそうではないところにより問題の難しさがある。どの政党も、特定の階層や団体を背景にしていることを懸命に否定して、全国民的な利害を代表しようとするのだが、結果的に誰も代表できていないという皮肉な結果になっている。

(追記)

 この混迷はネット上で発言力の高い経済学系の人も同じで、「構造改革」を批判して湯浅誠氏の問題意識に共感していたはずの人が、採用している経済政策が部分的に一致しているだけで、貧困や過労の問題から最も程遠い政治勢力を支持するとか、結果として貧困や過労の問題の周辺にいる人たちへの批判が多くなって、「構造改革」系の人たちと協調しているとか、その政治的態度は傍目から見て、半径5メートルの経済学仲間以外には全く理解不能なほど無茶苦茶である。

 クルーグマン民主党への一貫した支持者、共和党への一貫した批判者であるのと比べると、日本の経済学系の人たちの政治的態度を見ていると、その混迷ぶりは、目も当てられないほどひどい。しばしば語られる政治的見解も、正直薄っぺらな印象が強く、しばしば陰謀論と既得権批判・属性批判に流れる。もちろんこれも日本の政治システムの問題ではあるが、専門家であるだけに失望も大きい。

*1:経済成長がなければだめだろうという突っ込みが来そうだが、ここでの話(というか社会保障政策の議論一般)は一定の良好な経済状況を前提にしていることは言わずもがなであり、それを考えるのは経済の専門家の仕事である。