信頼できる専門家

 自分が信頼できる専門家というのは、その議論において「誠実」で「良識」のある人である。素朴なことを言っているようだが、これは極めて本質的なことで、自分も素人なりに金融政策や年金制度などに関する本を読んだりはしているが、結局のところよくわかっているわけではない。業績も地位もある経済の専門家が目の現れて「日本では金融政策はもう効かない」と力説されたら、こちらは黙って立ちすくむしかない。だから説得力の決め手になるのは、その人が批判に対して誠実に応答しているとか、物事がバランスよく見えているとか、人間観が深くて鋭いとか、社会のなかの排除や暴力に対して真摯な憤りがあるとか、結局のところそういう部分になる。

 例えば、竹中平蔵氏は多くの人から嫌われているが、別に彼の経済論が嫌われているわけではない。5年にわたって経済政策の当事者だったにも関わらず、経済問題について評論家然と語り、起こっている問題は全て「改革を怠ったから」「官僚が仕事をサボっているから」と切り捨てるその態度に無責任さを感じているのである。世間の竹中氏への反感を、経済学そのものへの反感と受け取っている経済学者の意見を見たことがあるが、「こんなに正しい経済論を言っても世間はわかってくれない」という自分たちの被害者意識を竹中氏に投影するのは根本的に間違っている。竹中氏はあくまで専門家としての誠実性を問われているのであって、彼が無意味に経済学への不信感をまきちらすような態度をとっていることに対して、経済学系の人たちが妙に寛容なのが正直不思議である。

 また経済学に限らず、専門家でも陰謀論や属性批判を繰り出したがる人が少なからずいるが*1、自分はこういう議論を目にした時点で、その人を専門家として一切信用できなくなってしまう*2陰謀論や属性批判は、気心の知れた仲間との飲み会における他愛もない悪口であれば、自分も決して例外ではないが、この飲み会のテンションをテレビやインターネットにまで持ちこんでしまう人がしばしばいる。特に日本のワイドショーや政治討論系の番組は、そういう飲み会談義を許容する雰囲気があるというか、そもそもそれが中心になっている印象すらある。とりわけ、ツイッターというこの1年で爆発的に流行したメディアでは、飲み会談義風の政治論や経済論が蔓延しており、専門家の肩書きを持っている人がフォロワーとともに世間の無知・無理解を愚痴っている姿は、正直傍目から見てあまり気分のいいものではない*3

(追記)

 しばしば社会保障論者がマクロ経済に無関心なのを愚痴っている経済学系の人がいるが、それを言ったら、経済学系の人の社会保障問題への認識の杜撰さも指摘しなければならない。経済学と福祉の間の矛盾は、お互いの専門分野で議論されていることを尊重するという意外になく、それができなければ専門家としての信頼性を失うことが、どうしてわからないのか不思議である(特に他人は要求しているのだからなおさら)。雇用、貧困、農業などの問題にについて、「そんな政策は経済学的にはありえない」と不用意に言い放つ人が多いが、そういう言い方は経済学の信頼性を貶めるだけであることに気付かなければならない。もっとも社会保障論者も、「もう経済成長の時代ではない」「コミュニティの復権で市場の暴力をコントロールすべし」とか言ってしまう人が結構いて、これも頭が痛いところだが。

 景気回復が雇用問題の最適な解決法であるという経済学系の人の言い方は、やはり全面的には賛同できない。これは、今の自分が社会的排除の問題に第一の関心があり、その観点からすると、たとえ景気が悪くても(悪いからこそ)政治の責任で雇用をつくるべきだと考えるからである。雇用は決して純経済学的な問題ではない。というか、そういう考え方をしていた(と思っていた)はずの人が最近、菅政権を批判する過程で、景気回復が全てであるかのような言い方にどんどんなっているのが気になる、というか失望している。

(追記2)

 経済学と福祉系とが最も衝突するのが消費税の問題だろう。個人的には、分配が対応していれば負担は増えないし、徴収の効率性や財源の安定性、政治的な正当性の面で、消費税でも別に問題ないとあまり難しく考えないようにしている。それに前にも書いたが、貧困の解消は単純な所得再分配よりも、制度的な再分配のほうがより効果的であり、負担の局面に過剰にこだわるのは生産的ではないというのが、社会保障論の共通とまでは言えないかもしれないが有力見解である。

 しかし、経済学系の人は良心的な人ほど消費税増税に反対する傾向がある。経済学的立場からそうなるのは理解できるが、「不況の中で日用品にまで税金を掛けるなんてトンデモは聞いたことがない」という言い方まで散見されるので、正直驚いてしまう*4。見るところ消費税増税を否定する経済学系の人は、社会保障論の文脈における増税論を完全に無視して、消費税増税財務省主導の財政再建論とイコールであるかのような(おそらくは善意に基づく)イメージ操作を行っている。言うまでもなく、福田内閣以降の増税論議、特に社会保障国民会議などにおける増税論は、財政再建の文脈だけで出てきているわけではない。

 あえて社会保障の立場から言わせてもらえば、失業・貧困・過労の問題を緩和するための財源として消費税が活用されるのであれば、今すぐにでもやるべきであり、経済成長による税収増などをのんびりと待っているわけにはいかないのである*5。それでも「増税のせいで景気が悪くなった」と言う経済学者がいるとしたら、あえて言わせてもらえれば、それは経済学の敗北であると思う。


(追記3)

 ネット上で存在感のある「リフレ派」について言うと、自分の理解できる範囲ではきわめて説得力があると思っているが、なにぶん専門的な話なので「良き観客」に徹することにしている*6。別に一部の人の言動がひどいからといって不賛成に回るほど愚かではないが、陰謀論や属性批判を平然と繰り出す人の学問的な客観性や誠実性に疑念(データを整理するときにも個人的な怨恨や好き嫌いをひそかに紛れ込ませているのではないか)が生じるのは当然のことで、それはくれぐれも気をつけてほしいと思う。

 それに当たり前だが、リフレ政策に冷淡だが貧困・過労の問題に理解のある政党と、リフレ政策に積極的だが貧困・過労の問題に無理解な政党とが争えば、個人の関心・立場としては前者を選択するしかない。というか、自分からすると、貧困・過労の問題への関心からリフレ政策に接近した人はやはり前者を選択すべきで、専門的な話題は専門家の間で決着をつけて、官僚や政治家にそれ以外の選択肢がありえないという条件をつくってもらうしかなく、政治の場面で決着を期待するべきではないと思う。

*1:ちなみに陰謀論批判について、「官僚の合理的態度について述べていることが陰謀論なのか」と反論している人がいて、これは何を言っても話が通じないと愕然とせざるを得なかったが、もし陰謀論でないと言うのであれば、「官僚と同じ立場になったときに九分九厘自分も(というか誰もが)同じことをする」ということが大前提である。そうした前提に立てば、あのような官僚の悪意を深読みするような批判ができるわけがない。

*2:政治家やジャーナリストは陰謀論もある程度しょうがないとは思っている。

*3:特にやるせなくなるのは、そういう同調圧力が蔓延しているコミュニケーションの中で、「出る杭は打たれる」的な日本的集団主義が批判されたりすることがあることである。やるせないというは、自分も確かに似たようなことをやってきているからである。

*4:ヨーロッパでは慢性不況だった70〜80年代に消費税が急激に上がっているはずで、逆に2000年代以降に景気が安定してからは、それほど増税していない気がする。個人的にはさほど不思議なことではなく、景気が悪いときほど国民の生存保障における政府の再分配の役割が相対的に大きくなるのは自然である。

*5:赤字国債でやればいいという人もいるが、そういう主張はあまり一般的には聞かないし、消費税で駄目な理由も「経済学的にありえない」という言霊ばかりで説得力がない。

*6:ネット上では素人勉強の人がリフレ政策に無理解な専門家をトンデモ扱いしていることが多いが、学問の世界にはもっと敬意を払ってほしいものだと思う。 言うまでもなく、「トンデモ」呼ばわりされている代表が小野善康氏で、自分も今でもあまり納得はしていないのだが、小野氏の批判に対する応答そのものは全体的に誠実で、それ自体は理解できるものだったと思う。ところが批判する側はというと、「結局財務省に都合のいい理論」という陰謀論全開の批判か、増税すると景気が悪化するという実証的というより直観に訴える批判ばかりで、小野氏に対する一連の誹謗中傷的で非学問的な批判は、私の「リフレ派」に対する信頼性を大きく下げることになった。それにしても素人勉強の人が、学会で業績のある小野氏の経済政策論を(畑違いの分野で頓珍漢なことを言っているならともかく)あそこまでトンデモ呼ばわりできるのか、はっきり言ってよくわからない。