官公庁や政治も俗世間の延長線上でしかない

 新年早々似たようなネタを書くのも気がひけるが、政治に対する「だらしがない」「やりたいことが見えない」という批判を聞いていていつも不思議なのは、自分の職場でやりたいことを貫き通している人がどれくらいいるのだろうか、ということである。むしろ、「世の中そんなに甘くない」とか「時には妥協も必要」とか、そのように考えて振舞い現実に耐えて妥協している「大人」な人が圧倒的多数のはずである。特に日本は、どこから見ても理不尽なサービス残業パワハラに真正面に抗議する人すらごく珍しい、「それに我慢するのが社会人」という規範のほうがむしろ強い社会である。

 このように、日常生活で「大人」な振る舞いをしている人が、なぜか政治の場面では完全にひっくりかえってしまい、「やると決めたらやればいいじゃないか」という「子ども」な批判ばかりが語られている。反対する人を説得するのがどれだけ大変かを、自分の仕事の経験では嫌というほど理解しているはずの人が、その想像力を政治の場面に応用できないのは、正直なところ不思議でしょうがない。テレビを見ていても、世間話ではそれなりに大人な知性と人生の経験の重みを感じさせていた文化人が、政治の話題になると途端に「だらしがない」「やりたいことが見えない」という、子どもでも言えるような軽薄な批判になってしまうことに、しばしば驚かされる。そして、同席している政治評論家がそれをたしなめるのではなく、陰謀論や既得権批判で補強し、「政局ではなく国民目線で政治を行ってほしいものですね」という言葉でその場が納得するというのが、日本のメディアの政治論議の一般的な風景である。

 そもそも、大手マスコミが「天下り」を無邪気に批判できる時点でおかしいというか、いや批判するのはいいけど、「ウチの新聞社も似たようなところあるよなあ・・・」という想像力を当然働かせるべきなのに、というかそういう想像力を働かせることで「天下り」への効果的・現実的な批判ができるはずなのに、「いや国民の血税だから」の一言で完全に無関係なものと遮断できてしまうのは、やはり卑怯としか言いようがないだろう*1。もし「脱官僚」とか「国民目線の政治」などと言うのであれば、官公庁や政治も俗世間の延長線上でしかないという認識から出発するべきだと思う。

*1:「民間企業だから天下りも勝手」という言い分を認めるとしても、「まあ、われわれも似たようなことをやっているわけですが・・・」くらいの認識はあるべきだろう。そもそも「天下り」批判は、もはやマスメディアの「お約束」でしかなく、それ自体がきわめて「官僚主義」的な仕事でしかなくなっている。記者クラブ制度よりもむしろ、新聞では「社説」や「天声人語」などに、テレビでは「政局よりも国民目線で」というコメントに「官僚主義」を強く感じる。