おそろしく実体がない

片山総務相「地域主権へ住民の満足度高める改革を」 本社インタビュー

2011/1/3 15:36 情報元 日本経済新聞 電子版


 片山善博総務相は、日本経済新聞社産業地域研究所のインタビューで、地域主権改革の実現へ向けた菅内閣指導力を強調した。総務相は「確かに(官僚の)抵抗は強いが、最後は政治家が決める。そのために決定権や人事権がある。閣僚が本気でやりたいと言ったことが決まらないはずはない」と語った。・・・・・


 「地方分権」「地域主権」論には、現行の議論には強い違和感をもちながら、原理的というか理屈としては賛成しているところもあって*1、今まであまり批判的なことを書けてこなかったのだが、そろそろ違和感そのものを素朴な形で表現しておこうと思う。

 「地方分権」「地域主権」を唱えられている背景は、草の根の地方の声が高まったからでは決してないことは言うまでもない。あえて言わせてもらえば、一つには全国民的な「霞が関」へのルサンチマンであり、そしてもう一つは自分たちの税金が地方に「ばらまかれている」ことに対する、大都市部のサラリーマン(および定年退職した年金生活者)の不満である。テレビでよくある、「地場産業や古い街並みで復興している地方都市」のレポートを最も喜んで見るのは、「なんだ、政府の補助金なんかなくてもやっていけるじゃないか」という「物語」がほしくてたまらない、大都市部のサラリーマンであろう。

 とにかく「地方分権」「地域主権」論への最大の違和感は、そこで語られている「地方」「地域」に、おそろしく実体がないことである。いろんな調査や「無縁社会」などの報道を見ても、そして自分の実感としても、日本における地域社会の人間関係は「絶滅」と言っても言い過ぎではないくらい、希薄になっているように思われる*2。そもそも、地元の民生委員や市議会議員の名前と顔をよく知っている、という人がいったいどれくらいいるだろうか。たいていの人は、3キロしか離れていない場所に住んでいる市議会議員よりも、テレビで毎日映る「小沢一郎」についてのほうが、情報としてはずっと詳しいのではないだろうか。

 「地域主権」ということを語る場合、こういう現実から出発しなければいけないのに、今の「地域主権」論は、まるで今の日本の地域社会が、地域に根を張り、地域について日々関心を持ち、自律的に地域を運営できている住民によって成り立っているかのような前提で話が進んでいる。そういう地域もあるのかもしれないが、明らかに一般的ではない(自分の経験範囲で言えばあり得ない)し、そもそも地域や地方にどのような生活の困難があり、生活を再建するためにはどういう政治の仕組みが適切なのか、という当たり前の議論のプロセスがない。

 だいたい、「地域主権」は地方・地域が主題の話なのに、その多くが霞が関批判に費やされているという時点で、どこか歪んでいるとしか言いようがないだろう。もっとも、今の日本の問題を官僚の陰謀や利権の問題にしたい、「なんだ、政府の補助金なんかなくてもやっていけるじゃないか」という「物語」がほしくてたまらない、そういう地方・地域の人たちの生活など全く無関心の世論が「地域主権」論を支えているとすれば、そこで言われる「地方」「地域」の無内容さも当然ではある。

 しかし、衰退する地方都市の住民自身も、こういう世論の一部であることは、何かと話題の阿久根市に関する報道を見ていても感じることである。もちろんそれは、「地域主権」が自分たちの生活を改善してくれるからではなく、中央官庁や県庁と激しくぶつかり合っている姿勢そのものに対して、「自分たちのために頑張っている」と感情移入しているに過ぎない。それは、彼らが愚かだということでは必ずしもなく、日本社会全体から見捨てられたとしか言いようのない地方都市のなかで、少しでもいいから自分たちのために真面目に考えてくれる人がほしい、というのは決して感覚としてわからないわけではないと思う。

(追記)

 ちなみに、ナショナル・ミニマム地方分権が対立するかのような意見がしばしばあるが、自分は少なくとも原則的にはそうではないと考えている。地方分権の趣旨が、自らの生きる地域をどうするかについて、そこに住んでんいる人の参加や意思決定の能力を高めるということであれば、そのためのナショナル・ミニマムはむしろ必要条件である。

 たとえば、市街地を壊滅させてまで東京資本の大型ショッピングモールを誘致しようとする自治体は、要するに財政が厳しいということが背景にある。ショッピングモールを主体的かつ積極的に選択しているならともかく、実際のところ「財政状況を考えると外に選択肢がない」と、追い込まれた上での決断であることに問題がある。地方自治体の圧倒的な本音としては、ショッピングモールを誘致せずとも、地元の駅前商店街が活性化してくれれば、それに越したことはないのである。

 今の「地域主権」論が最低なのは、こういう問題を全く考えることなく、地方分権が地域間の「生存競争」であることをあけすけに肯定していることにある。「生存競争」というのは、競争に勝つためには政府の公共事業でも東京資本のショッピングモールでも、何でも受け入れるしかないという態度を助長するだけで、それは、そうした生存の恐怖から自由なところで、自分の地域をいかに主体的にデザインしていくかという、本来の「地域主権」の理念に反するものである。結果として、地元の商店街をどのようにデザインするかということを考える余裕もなく、目の前の財政が厳しいからとショッピングモールを誘致してしまう。そこでは、「ショッピングモールの客が商店街にも流れてくるから」という屁理屈を垂れ流すしかなくなっている。

 2000代以降の地方分権論は、財政や福祉など競争できないもの、そもそも競争させてはいけないものを競争させたことで、政治制度的には分権化が進んだ一方で、社会経済的には「東京一人勝ち」の「中央集権化」が一層進んでいる。地方都市の住民は、地元の病院の存廃すら、自分たちの意思で決められなくなっている。だから、「地方分権」「地域主権」のためには、まず「生存競争」を排除することが大前提であり、そのためのナショナル・ミニマムの充実はむしろその条件である。

 ちなみに、地方に住民が散らばっていることは経済的にコストだという一部の意見については、自分のうまれた土地に住みつづけることが「コスト」だといってしまえる社会がどうして「豊かな社会」なのか、と言っておきたい。そういうことを平然と言える人の経済論は、なんらかの正義感に基づくものであったとしても、やはり眉に唾をつけて読むしかない。

*1:社会保障制度が成熟すればするほど、全国一律的な福祉サービスの在り方は適切ではなくなってくる、というのは確かに理屈としてはその通りなので。もちろんそれは、あくまで個々人の事情の違いやライフスタイルの多様性を織り込んだ形の社会保障の構築という文脈においてであって、地方分権そのものが目的ではない。

*2:もちろんたぶん言い過ぎで、あるところにはあるとは思う。