「脱成長論」の可能性

 前回、言いたかった重要なことの一つがスルーされている可能性が必要があるので、あらためて繰り返し言っておくと、「脱成長論」と経済成長論は論じている当人たちが思っているほど共存不可能な議論ではない、ということである。

 「経済成長がなくても自殺者・餓死者を出さないような社会の仕組みをつくる」ことと、「経済成長がなければ持続可能な財政や社会保障は有り得ない」ということとは、両方同時に考えるべき、また考えることのできる課題のはずである。

 もし今の自分が前者に寄っているとしたら、2000年代に「経済成長」という言葉が、しばしば再分配しないことへの言い訳に使われてきたことへの憤りが根底にあるからだろう。今の日本の文脈においては、「経済成長」という言葉で誰が抑圧・排除されるのかということを考えざるを得ないので、「成長」を掲げる人を否定しているわけでは決してないが、自分は「成長」を掲げることには心情的に抵抗があるわけである。

 それにバブル以前の、5%以上の経済成長を前提にして成り立っていた制度や政策は改めるべきではないか、という問題意識自体は、やはり間違っていはいない。自分が読む範囲でも、2%程度が今の日本の妥当な経済成長水準らしいが、これはバブル以前と比べて「脱成長」と表現しても別に不適切だとは思われない。

 確かに、「脱成長論」の「きれいごと」に閉口することは多いし、それが「勝ち逃げ世代」の心情を代弁している可能性は否定できないが、現実の社会がある種の「きれいごと」抜きでは成り立たないことも事実だろう。自分はもう少し、「脱成長論」の可能性について少し真面目に考えられてもいいのではないかと思っている。