よらしむべき、知らしむべからず

 原発事故などについて、「デマに騙されるな」という言い方が政府からツィッターに至るまであり、デマ言説をまとめて注意喚起に努めている人も大勢いる。それ自体はもちろん大事なことだけど、そもそもデマが広まる温床を拡大させるような言説についても、厳しい批判の目が向けられる必要がある。つまり、首相と閣僚はこの期に及んで「政治主導」のパフォーマンスしか考えていないとか、官僚や東電が都合の悪い情報を隠しているとか、「利権」「癒着」によって保身的な行動に走っているとか、テレビで「ただちに健康被害はない」と解説している専門家は「御用学者」でしかないとか、そういうものである。

 言うまでもなく、こうした批判は真実を含んでいることがあるとしても、結局は根拠のない主観的な印象論でしかない。「利権」「癒着」に至っては、繰り返すように政府の予算が投入されている分野すべてに見出させるというしかないし、少なくとも緊急の問題解決にとって何の意味もない批判である。政府や専門家を批判する場合は、自分たちのほうがより確実で効果的な情報や解決方法を提示することができる、という根拠をしっかりと示さなければならない。それをしないままに、「情報を隠している」「利権で保身に走っている」と批判すれば、人々は政府や専門家が何を語っても疑いの目を向けるようになる。その結果、「何を信じたらいいのか」という不安を人々の間に蔓延させ、そのことがデマを拡散させる温床になるわけである。

 このような不信を喚起する言説は、いかにも悪質なデマとは異なり、ある種の真面目な怒りや正義感に根ざしている場合が多いので、かえって厄介なところがある。しかしデマの拡散は、やはりこうした不信の言説ぬきにはありえないのである。「東電と癒着している保安院が本当の情報を出すわけがない」という言説は、放射能汚染を誇張するデマの拡散を強力に後押しする。

 ちなみに東電や保安院を批判する際に、「よらしむべき、知らしむべからず」という表現を使っている人がしばしばいるのだが、個人的にはこの表現は「指導者や専門家は人々に信頼されなければ、どんなに情報を与えたところで信じてもらえず意味がない」と解釈したほうが、含蓄があるように思える。もちろん、信頼獲得と情報の公開とは現実に切り離せないものだが、どちらがより根本かと言えばやはり信頼のほうであり、だからこそ信頼そのものを解体させるような言説を垂れ流している人たちには、常に厳しいを目を向けなければならないと考える。

(追記)

 ここで書いたことで意図したことがほぼその通りの、ある社会学者さんの文章があったので、紹介しておきます。

◇ひとたび「信頼性」が失われると◇


多くの人々にとって「事実」が何か分からなくても、通常それほどの混乱が生じないのは、報道がもつ「信頼性」によるものである。プロの記者、その所属先であるマスメディア、それを監督する政府……などといったかたちをとる、一連の「体制」のようなものへの「信頼性」である。


この「信頼性」は必ずしも確たる根拠をもたないし、もちようがない。しかしそれがなくなったときにこそ、流言の発生が不可避となる。そしていったん生じたら、流言なのか事実なのかの区別が重要でなくなり、長い時間が経つまで打ち消すことができなくなる。


清水によるこうしたジレンマの指摘は、「情報公開が十分ではない」という内外からの批判(それ自体は妥当な批判であるが)に対し、日本政府や関係者がかなりの程度情報をオープンするようになった後も、一向にここでいう「流言」が止まないこと、混乱が収まるどころか拡大するばかりにすらみえる事態を、見事に予言しているようにわたしにはみえる。


http://synodos.livedoor.biz/archives/1727279.html

 専門家に対する信頼は言語化できるような根拠があるわけではなく、非常に微妙なところで成り立っている。そうした根拠の乏しい信頼感が、かろうじてパニックや流言の散乱を防いでいる。「東電と経済産業省が癒着している」「政府の原発推進のための御用学者」という類の言説は、そうした信頼感を破壊する以外の何の役割も果たさない。

 デマをデマとして批判することに熱心な人は多い。しかし「利権」「癒着」「御用学者」という類の言説を垂れ流している人に対する批判は少なく、しばしば真摯に問題を啓発しているようにも見えてしまうことが残念である。だが、こうした指導者や専門家への不信を煽る言説は、明らかにデマを広めるにあたって決定的な役割を果たしており、単なるデマ以上に厳しく批判されるべきである。もし一刻も早い問題解決を願う心が言わせているのだとしたら、ただちにやめてほしいと思う。デマの危険性は言うまでもないが、不信の言説はそれ以上に危険であることがしっかりと認識されなければならない。

 当たり前だが、「利権」「癒着」に対する攻撃は、政治学の利益団体論などとは全然違う。利益団体論は、少なくとも利害関係の「構造」を問題にしているが、この手の言説は東電幹部や官僚の悪意を懸命に読み込もうとする。言うまでもなく、政治学社会学が構造を描くのはあくまで事態を俯瞰的に観察・分析するためであって、構造自体を批判の対象にするためでは必ずしもない(それが背景の動機のあることは確かだが)し、またそんなことは全く意味がない。