一月あまり経って

 依然として余震も多く、この一月あまりの間に起こったことをいまだに現実として消化できていない感じだが、前回の追記のようなものとして。

 現場の専門家を、その専門的な知識以外の水準(「利権」とか「御用学者」とか)で批判することが*1、デマの拡散を強力に後押すると前回書いた。その上で、専門家の専門的知見を批判するときに絶対にやってはいけないと思うのが、「理解ができない」「わけがわからない」という批判である。

 「理解ができない」「わけがわからない」というのは、つまり普通に勉強・研究していればおよそ有り得ないくらい相手が間違った意見を持ってしまっていることに、怒りを通り越して驚き呆れている、という嘲笑的なニュアンスを込めた批判である。しかし単純に考えれば、そんな意見はただ無視すればいいだけで、わざわざ言及して反論するまでもなく、勝手に相手にされずに消えていくのを待てばいいだけである。

 もちろん、「理解ができない」「わけがわからない」意見が一定の政治的・社会的な影響力を持っている場合は、どうしても批判が必要になるかもしれない。その時は、代表的な(可能な限り政策や学界の中心に近い)人物を一人取り上げて徹底的に実証的・論理的な批判を(好みとしてはストレートな怒りを込めて)加えつつ、その上で、どうしてそうした「わけがわからない」意見が影響力を有しているのかの、学問上あるい政治社会的な根拠について、きちんと説明を与えることが専門家としての責務だろう。少なくとも、ある一定の社会的立場を獲得している専門家の主張が、「理解ができない」「わけがわからない」ということは基本的に有り得ないというか、そういう地点から出発しなければならない。

 しかし残念なことに、専門家の中には「理解ができない」「わけがわからない」意見に直面すると、こうした責務を愚直に果たそうとする前に、属性批判や「利権」批判、あるいはイメージそのものを貶めるような形の批判で応答してしまう人がいる。もちろん中には、「もう実証的な批判はさんざんやってきた」と、泣き言を言いたくなる人もいるかもしれないが、自分だったら、敵対者がそういう態度に出たら「もう勝ったな」とほくそ笑むか、真面目に読むに値しないと徹底して軽蔑するかのどちらかだと思う。「理解ができない」「わけがわからない」という批判は、あらかじめ味方だった人と共感し合う以外の何の効果もない。

 事態が長期化して懸念されるのは、「癒着があるから対応がまずくなっている」といった類の*2、根本的でない批判がますます増え、真になされるべき政策論を阻害することにある。少なくとも理系でも文系でも「科学者」の名を背負っている人たちには、こういう非生産的な批判を敢然とはねつける知性を期待したいと思う。

*1:それにしても、「利権」「癒着」批判に並々ならぬ執念を燃やす人というのは、昔から全く好きになれない。こういう人の中には自称「自由主義者」も大勢いるが、もし「自生的秩序」を重視するなら、「利権」「癒着」にも一概に否定できない根拠があるかもしれない、という反省的思考が出てこなければおかしいだろう。たぶん、こういう人は世の中が透明で凸凹がないことを「自由」と呼んでいるのだろうが、自分からすれば、それはかつて「社会主義」に対して感じた拒否反応と同質のものである。

*2:別の側面から見れば、「癒着」が意思疎通をスムーズにしているという言い方だって可能だろう。「脱官僚」の一方で、現実的裏付けのない政策論や不用意な発言で激しい批判に直面している民主党政権の現状を見ていれば、特にそうである。