全く信用できない

Q:なぜ、合理的に説明できない原子力発電が推進されてきたのか?


日本の原子力は全体が利権になっている。電力会社はとにかく地域独占を崩されたくない、送電と発電の一体化を維持したい。それを守ってくれる経済産業省の意向を汲む、天下りをどんどん受け入れる。経済産業省にしてみれば、前任者のやってきたことを否定できずに来た。原子力、核、放射線と名前の付いた公益法人独立行政法人、山ほどある。そこにお金を上手く回して天下りさせる。電力会社も広告宣伝費で協力金を撒いてきた。自民党献金を受け、パーティ券を買ってもらった。民主党は電力会社の労働組合に票を集めてもらっている。学会も電力会社から研究開発費をもらい、就職先を用意してもらってきた。さらに政府の意向に沿った発言をしていると、審議会のメンバーに入れてもらえる。マスコミは広告宣伝費をたくさんもらって、原子力政策の批判はしない。みんなが黙っていれば、おいしいものがたくさんある。そういう状況が続いてきた。


http://news.livedoor.com/article/detail/5525056/?p=2

 衆議院議員河野太郎が「脱原発」を盛んに主張している。正直、そのこと自体にも若干の違和感があるが(彼が「脱原発」の主唱者だとは震災以前は私を含めて知っていた人は少なかったはずだ)、もっと問題なのはやたらと「利権」「癒着」の論理で批判していることである。しかも、その批判に共感している人が結構多い。

 言うまでもないが、もし「利権」「癒着」があったとして(政府の予算がついて回る場所にはどこにもあるに決まっている)*1、今回の事故と因果関係があるかどうかは不明である。完全に競争民営化されていたとして、事故は防げなかった可能性、より深刻化した可能性はいくらでもある。その時は、「市場原理主義的な利益・効率優先の思想が安全性を犠牲にした」という批判が、大合唱で起こるのだろうと思う。要するに、何とでも言えるのである。

 だがそれ以上に「利権」「癒着」批判が根本的によくないのは、東電、保安院原子力安全委員会など、現場の専門家の説明を誰も信じなくなってしまうことにある。現場の専門家が「利権」「癒着」で汚されているという話になれば、たとえ正しいことを言っても、全く信じてもらえなくなる。結果として、人々の間の不信や不安を増幅させ、デマに対する耐性が弱くなり、過剰に危険性を煽る言説が拡散しやすくなり、風評被害や避難住民への差別をより悪化させてしまう。

 デマをデマをして批判する人は多いが、デマ拡散の強力な「燃料」である「利権」「癒着」批判に対しては、正直言ってあまりに甘すぎる。非常時における「利権」「癒着」批判は、デマそれ自体よりもはるかに危険で悪質であることが、きちんと認識されなければならない。「利権」「癒着」批判をしながらデマにも騙されていない人もいるが、それはその人が(一日のかなりの時間をインターネットに費やせるような)「情報強者」の立場にあるからであって、仕事で普通に忙しい一般の「情報弱者」は、「利権」「癒着」批判をどこかで耳にすればデマを容易に信じてしまいやすくなることは確実である。

 反原発原子力専門家としてにわかに脚光を浴びた京都大学小出裕章氏だが、もちろん専門的な問題についての評価は保留するとして、自分が意外に思って感心したのは、小出氏が不倶戴天の敵である原発推進派に対して、「利権」「御用学者」的な批判を一切していないことだった。小出氏によると、原発政策の推進派学者が当初思い描いた通りの技術革新は起こらず、さらに「もんじゅ」などの想定外の事故が次々と起こり、色々な行き詰まりをなんとか弥縫しようと、プルサーマル原発などより危険なものに手を出しはじめて、様々な無理が生じて苦労を強いられているのだという。つまり原発推進派の専門家も、彼らなりの夢や使命感があったのだが、途中で行き詰り、しかし今更引き返すこともできなくなっている状況にあるというわけである。この説明は非常に説得力があると思うが、「利権」「御用学者」的な批判の文脈からは、こういう問題は全く見えてこない。利益につられて悪魔に魂を売ったという、馬鹿馬鹿しい話以上のものにならない。

 河野太郎は、もっと被災者・避難者を主語において、その救済・支援のために何が最も効果的であるのかということを中心に話をしてほしい。「利権」「癒着」批判に大部分を費やしている時点で、自分はこの人を全く信用できない。

(追記)

 予測はしていたが、やはり今の状況だとこういう意見は反発を生みやすい。しかし何度も言うが、原発問題を「利権」の問題に還元してしまうと、東電や専門家自身が既に原子力を持て余し、延々と問題を先送りするような対処法を取らざるを得なくなっているという、小出氏が指摘した問題が見えなくなってしまう。「利権」こそが問題の根源だということになると、天下りをやめろとか、東電を解体して完全民営化しろとか、そういう結論になってしまう。繰り返すが、それは今の原発事故問題とは直接関係ないし、それをしたところで安全性が向上するわけでは必ずしもない。少し考えれば誰でも分かることだ。

 個人的には、今回の事故では原子力安全委員会に対する怒りが大きい。保安院や東電はある意味で原発を推進・正当化して「安全性」を強調するのが「仕事」というところもあるが、メンバーの多くが大学に籍を置いている原子力安全委員会は、純粋に科学技術的な見地から危険性を指摘すべき立場にあったはずだからである。原子力安全委員会は東電や保安院に比べても動きがかなり遅く、しかも政府の対応にそれなりの影響を与えているにも関わらず、メディアの露出も多くなく、あまり批判の矢面に立っていない。今回の子ども年間20ミリシーベルという判断も原子力安全委員会によるものだが、さすがに自分もこの場当たり的判断はひどいと言わざるを得ない。原子力安全委員会は、専門家の信頼性を自分たちでどんどんぶち壊しているとしか思えない。

 だからと言って原子力安全委員会を「利権」の名のもとに批判することは全面的に間違っている。素朴な言い方だが、「ちゃんと専門家としてやるべき仕事をしろ!」と言う意外にないのである。あの小出氏も、論敵の原発推進派の学者を厳しく非難することなく、「私なんかよりもはるかに必死だと思うし、なんとか必死に頑張ってほしい」と語っていたことが印象的だったが、反原発という氏の主張は脇に置いておくとして、「利権」批判に興じている人も少しは小出氏の態度を見習うべきだと思う。

(利権について)

 批判を頂戴しました。

 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110501

 河野太郎がより大きな「原発体制」を問題にしているというのはわかる。しかし、「利権」という批判の仕方には、利権者の意志や決断ひとつでそれが放棄できるかのようなニュアンスがある。もし本当にそうであれば、利権批判も少しは意味があるかもしれない。しかし、もし「利権」が「原発体制」の問題だとすると、その「解体」には福島第一原発廃炉以上の長い長い時間がかかるだろう。そう考えると、この非常時における利権批判は、現場の専門家への不信感を煽る以上の何の意味もない批判である。

 「利権」が問題だというのは、利害関係者が固定して外部者が排除されているということ自体が問題なのであって、非常時にはむしろ脇に置いて、現在は利権にまみれていようが何だろうが、現場の専門家を全面的にバックアップするべきである。自分の河野太郎に対する批判は、第一義的には、彼の批判の仕方が現場の専門家の足を引っ張って、目の前の問題解決を阻害する危険性があると考えるためである。

 河野太郎は政治家だから、一種のアジテーションも仕方がないとして、周囲までがそれにまじめに付き合う必要は全くない。「利権を守りたいがために不合理な原発を推進してきた」というよりも、原発推進派自身が膨大なリスクを抱えきれなくなって不合理な選択を延々と続けざるを得なかった、という小出氏の理解のほうが真っ当な人間観に基づいているし、そしてより「社会学的」であるように思う。

(小出氏について)

 何度も言及した小出裕章氏だが、内容そのものの是非は保留しておくが、やはり人間的には大変に魅力のある人である。自らを周辺に追いやってきた専門家にも、それでも「なんとか頑張ってほしい」と期待をかけ、この事態を止められなかったことを、何度となく無念の表情で謝罪している。特に共感したのは、「危険なものを過疎地に押し付けるのは差別でしかない」という氏の根本理念である。小出氏の話を聞いた後だと、やたらに鬼の首を取ったように元気に東電や経産省を攻撃する河野太郎は、どうしても胡散臭く感じる。

(どうでもいい話)

 SUMITAさんの「循環的な相互依存関係」という表現が、自分は全く理解できない。「循環的な相互依存関係」というと、「利権の構造」というよりは「連帯」や「友愛」をイメージさせるのだが・・・。社会学はある種の経済学者ほど視野狭窄で傲慢ではないけど、どうにでも解釈できるような表現を濫用する人があまりに多すぎる。社会学というのはそういうもんだと言われてしまえば、そうかもしれないという気はするが。

 経済学は「子どもが扱うと危険な刃物」と以前に表現したことがあるが、社会学って「殺人鬼が振り回しても誰も怖がらないおもちゃ」みたいなところがある。まあ、ちょっと言い過ぎかもしれないけど*2

(訂正)

 原子力安全委員会は、子ども1年間20ミリシーベルトという判断に当初から反対だったらしい*3。ただ斑目委員長は容認しているので、何だかよくわからないが。

 個人的には批判されるべきは東電よりも、大学に所属している原子力の専門家だと思っている。東電の社員はある意味で「安全性」を宣伝しないと飯が食えない人たちであり、そして独占企業とは言え民営化されている以上、一概に「何で嘘をついてきたのか」と責められないと思う。それに対して大学の先生は、安全だと言えば生活が保障されるという仕事の仕方をしていない。にも関わらず、東電や経産省以上に「安全性」を強調し、そのお墨付きを与えてきた経緯がある。

 もちろんこれは「利権」などというものではなくて、「科学は常に現実によって乗り超えられる、そしてその事実こそが科学を発展させる」という単純な事実を、本当の意味で理解していなかったことによるものである。これは、物理より遥かに不確定要素の多い現実を扱っているはずの経済学系の多くの人にも感じることである。

*1:記事には「歴代政府が推し進めてきた原子力行政は利権まみれの歪んだものだった」とあるのだが、これ自体が漠然としてよくわからないし、「利権」のない政府関連事業とはいったい何なのだろうか。結局、問題が起こるとそこに「利権」を発見しては問題を理解したつもりになって安心したい、というだけの話に過ぎない。

*2:追記。やはりこれは言い過ぎで、断っておくと、あくまで10年ぐらい前にメディアで流行した社会学者さんたちをイメージしたものである。むしろ、理論社会学会の中心にいる人たちの中には、ハードな階層問題や社会保障問題に造詣の深い人も多い印象がある。むしろ最近心配なのは、ネット上などで経済学という切れる刃物を、おもちゃのように論じている人が多くなったこと。自分も反省しなければいけないけど。

*3:http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011050201001092.html