「子どもは社会が育てる」べきか

 最近、一部で「子どもは社会が育てる」べきかどうかということが、話題になっている*1民主党は、子ども手当て政策に対する「バラマキ」批判に応答する際に、「子どもは社会で育てる」という理念をよく持ち出していたが、これに対して自民党は、7月に発表した「日本再興」の第6分科会「教育」の中で、「「子どもは親が育てる」という日本人の常識を捨て去り、「子どもは社会が育てる」という誤った考え方でマニフェストを作り、その予算化を進めている」と、育児責任は「社会」ではなく「親」にあることをはっきり明言している*2。現在の日本における家庭(特に母親)の育児負担の大きさと、それに由来する少子化児童虐待に対する問題意識が少しでもあれば、「子どもは親が育てる」というのはナンセンスとしか言いようがないが、世論の「バラマキ」批判のなかで子ども手当政策が撤回されたことにより、結果的に自民党の「子どもは親が育てる」という方向性が政治的に支持されている形になっている。与謝野馨と「税と社会保障の一体改革」の周辺も、品のない「バラマキ」批判はさすがに少ないとは言え、「財政再建」の論理が強いこともあり、子ども手当の防衛にはほとんど熱心ではない。

 自民党からみんなの党に至るまでの、現実における家庭と母親の育児負担の問題に冷淡な政治勢力には本当に憤りを覚えるが*3、では民主党に問題がなかったのかと言えば、それは大いにあると言わざるを得ない。実際、民主党議員が野党の子ども手当批判に対して「子どもを社会で育てる」と抗弁するのを聞くたびに、個人的には加勢する気持ちよりも違和感のほうが強く残っていた。その理由をここで簡単に述べておきたい。

 第1に前回の繰り返しになるが、民主党子ども手当て給付を税負担と対応させてこなかった、もしくは税負担との対応を全くアピールしてこなかったことである。「子育ての社会化」というのであれば、まずは育児負担の再分配という問題を先に考え、それを有権者に対して真正面から問うことが必要であったにも関わらず、給付の側面ばかりに重点を置いてしまったことで、「社会化ではなくバラマキに過ぎないじゃないか」という批判に説得力を持たせる結果になってしまった。

 第2に、公的な保育サービスの充実、母親の雇用保障、ワークライフバランスのための社会規制の強化、教育費の負担軽減など、ソフト面での政策が完全に後手後手になっており、子ども手当てだけが極端に突出してしまっていた。ヨーロッパ諸国における子ども手当ては、あくまで育児支援および社会保障政策の全体的なスキームの中の一つに過ぎないのに対して、民主党政権はそうした全体スキームの構築を怠り、結果として「子どもを社会で育てる」という理念への説得力も欠くものとなった。子ども手当てのような一律現金給付が、「子どもを社会で育てる」ことだと言われて納得する人がいるとしたら、そのほうが明らかにおかしい。

 第3に、自民党の「子どもは親が育てる」という理念に賛成するかどうかは別にして、日本では育児の責任が第一義的に家族と両親にあるという観念が強い、という現実があることは確かである。ヨーロッパにおける公的育児支援の充実は、親の子供に対する育児の責任が弱く、同棲婚出産など結婚・育児のスタイルも極めて多様な、個人主義的な社会であることを背景にしている。こういう社会では、政府が何もしなければ、世の中が浮浪児や不良青年であふれてしまうことはあまりに明白なので、社会の安定や治安のために公的な育児支援が充実する結果になるわけである。それに対して日本では、就職した後でも親と同居して生活費の面倒は見てもらっているというのは比較的「当たり前」の風景であり、政府が何もしなくてもある程度家族で負担を自発的に背負ってもらえるので、結果として公的育児支援(および民間のベビーシッター産業など)もさほど充実してこなかった。このように日本では親の育児責任の観念が強いため、親の人格や所得に関係なく子ども手当が給付されるべきという考え方がなかなか納得を得られず、むしろ「育児放棄している親」や「金持ちの親」にまで一律に現金が給付されるのはおかしい、という世論の反感がどうしても発生しやすい構造がある。

 だから子ども手当てを実行する際には、第1に税負担との対応を明示すること、第2にソフト面での政策を含めた育児支援の全体像を示すこと、第3に「社会で育てる」という場合の親・家庭の役割を再定義すること、などなどが必要であったと考える。第3の問題について言えば、早急に育児の責任を親から「社会」に移転しようとするのではなく、親同士の交流やコミュニケーションを活性化させて、それぞれの家庭で育児を孤独にこなしている現状をまずは解消するような支援の在り方を考えていくことである。つまり、同じように育児を「社会化」して負担の軽減をはかるのであれば、親を育児の責任から解放するという方向ではなく、親の育児責任自体は尊重した上で、まずは子どもよりも先に親自身の「社会化」を図っていくという方向性のほうが、日本人にとってより素直に受け入れやすいものになったはずである。ただし、以上は安定政権の下で長い時間をかけて取り組むべき課題であるので、今の民主党政権にその余裕は既にないと言わざるを得ないが。

 これはやや余談だが、山崎元氏のように、子ども手当てのような一律分配政策を官僚政治批判の文脈で評価する人もいるが*4、きわめてナンセンスとしか言いようがない。官僚の裁量があるべきかどうかは、第一義的には個々の家庭の育児負担が具体的に軽減されるかどうかで判断されるべきであって、官僚政治批判はまた別のステージで行われるべきであろう。山崎氏の文章には、子ども手当てが主題なのにも関わらず育児や教育の話が一行も出てこないように、少数ながら存在する子ども手当擁護派が往々にして育児・教育の問題にさほど関心のない人たちであったことも*5子ども手当て政策にとって極めて不幸なことであった。

*1:http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/180168

*2:既に批判されているように、これは「常識」では必ずしもない。一昔前は事実上、親族や地域といった広いネットワークのなかで子どもを育てていたし、貧しい家では子どものうちから余所の家に丁稚奉公などに行かされていた。「子どもは親が育てる」という観念は、伝統的なものをなにがしか引き継いでいることは否定しないが、基本的には「核家族」が家族形態の中心となった高度成長期以降に形成されたものと理解すべきである。そもそも、かつて自民党は「日本型福祉社会」を掲げていたように、福祉削減の方向性に立っていたとしても、個々の狭い家庭を超えた「社会」(地域と親族)で育児を広く負担すべきという発想に立っていたはずなのだが、いつの間にか個々の家庭に育児の責任を求めるようなものになってしまっている。

*3:そもそも緊縮財政政策というのは、政府の分配が減ってもさほど生活に支障が出ない程度の、「政治に真面目な(つもりの)」中間層や富裕層に非常に受けがいい傾向がある。特に子ども手当ては、直接的な受給対象ではなく、過去に公的な育児支援を受けた経験の乏しい高齢年金生活層にとっては、どうしても「バラマキ」に映りやすい。自民党は昔からの支持層の意見や心情を代弁しているに過ぎないという部分もあるが、若年世代を代表しているはずのみんなの党までが、こうした「バラマキ」批判に加担して支持の拡大を目論んでいる点に、日本における政治の閉塞感が象徴されていると言える。

*4:http://diamond.jp/articles/-/13687

*5:関心のある社会保障の専門家の多数は、現金給付よりも現物給付による制度的な再分配のほうが育児負担軽減に効果的であるという立場なので、子ども手当てに対する評価はそれほど高くないようである。