「再分配のパラドクス」について

 財政学者の神野直彦氏の「再分配のパラドクス」について、分かりやすい解説を見つけたので備忘録として引用しておく。

再分配のパラドックス ― 博多連々(はかたつれづれ)
http://ryuseisya.cocolog-nifty.com/hakata/2010/08/post-da12.html


本当に支援が必要な人”にのみ集中的に支援する方法は、
・支援の有る/無しのギャップが大きい
・ボーダー付近で支援を受けられない人は、支援を受ける人より苦しくなる「逆転現象」も起きる
・支援を受ける人へのまなざしが非常に厳しくなる(「本当に困ってるのか?」「怠けてんじゃないのか?」「ウチだって苦しいのに、不公平じゃないか」etc.)
・支援を受ける条件・審査を厳しくせよという圧力が高まる
・条件がどんどん厳しくなり、ボーダーが下がる
・支援されてしかるべき人が除外されていく
・支援全体が縮小する


 「再分配」という場合、一般には高所得者から低所得者への所得移転、言い換えれば消費性向の低い人から高い人への所得移転と理解されている。しかし、再分配というものはもっと繊細に考えることが必要になる*1。逆説的な言い方になるが、政府による直接的な分配に依存しなければいけないような、低所得者を再生産しないようにするための再分配の仕組みを、制度的に設計することが重要である。

 単純な所得再分配の方法は、ややもすると低所得者や貧困者を再生産するメカニズムそのものが不問にされてしまう危険性がある。結果的に政府の分配に依存して生活するだけの人々が増加し、財政コストが嵩むだけではなく、彼らに対する「税金を食いつぶしている」的なスティグマが強まり、再分配の削減を主張する政治勢力が支持されるようになる。

 「子ども手当て」の問題は、高所得者も受給できてしまえるという点ではなく、ワーキングプア状態のシングルマザーを再生産しないような、制度的な設計を欠いている点にある。保育所の整備はもちろん、職業訓練、雇用創出、育児休暇など法規制の強化といった、育児支援全体の設計図のなかで「子ども手当て」が位置づけられていればいいのだが、今のところ「子ども手当」だけが極端に突出しまっており、それが世論の違和感や「廃止すべきだ」という根強い声の原因にもなっている。

 とにかく再分配というのは、単純な財や金銭の移転ではなく、教育、雇用、社会保障、法律といった制度全体で設計することが肝要である。問題は、そのためには安定した政権運営と官僚との綿密な共同作業が必要なのだが、今の民主党政権や世論の現状を考えるとほとんど絶望的になってくる。

(追記)

 ただ自分の中にもジレンマはあって、北欧型のワークフェアは政策論的には正しいとしても、倫理的にはどうなのかなというのはある。そもそも、働く能力や意欲を失っている(大多数は低所得・貧困の)人を排除してしまうのではないか、またそういう人を「二級市民」に貶めてしまうのではないか、という疑念はある。前にも書いたが、好き嫌いの話だけで言えば、北欧モデルは必ずしも好みではないし、日本が全面的に北欧のようになるべきだとも全く思わない。

 湯浅誠氏のような貧困運動の最前線にいる人は、そもそも「働く意欲を失ってしまった人」に膨大に直面しており、しかもそれは日本社会の中にある独特なワークフェア文化によって排除されてきた人たちなわけで、湯浅氏のような貧困運動家が、日本の文脈を念頭においた上で、北欧型のワークフェアに懐疑的になるのは、やはり当然であると思う。これは、福祉国家論者が真摯に直面すべき問いである。

*1:逆に「経済成長」は出来るだけシンプルに考えるべきである。