被災地支援の制度をもっと宣伝すべき

渦中のボランティア休暇はダメ 橋下知事「有給なら民間より厚遇」
2011.5.10 12:45



 大阪府が昨年4月に廃止したものの、東日本大震災を受け、庁内で制度復活を求める声が上がっていた府職員のボランティア特別休暇について、橋下徹知事は10日、「行政側で詰めてもらったが、ボランティアのほとんどは無給。公務員だけが有給の特別休暇をもらっていくのでは現地で一致団結できない」と述べ、制度は復活させず、職員には通常の年休を利用するよう求めた。


 ボランティア特別休暇は阪神大震災後に国家公務員に導入され、大阪府など全国の多くの自治体でも導入。府ではボランティア活動のために年間5日まで、通常の年休とは別枠で有給休暇を取ることができた。


 橋下知事は「社会をリードしようと、労働条件が民間より厚遇になるような制度を作っても企業はついてこない」と指摘。制度について「国民感覚から乖離(かいり)している」とも述べた


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110510/lcl11051012470002-n1.htm


 CFW以外にもっと活用されるべき制度として、ボランティア特別休暇制度がある。民間企業では、生産が落ち込んで仕事が減ったこともあり、自宅待機よりはと奨励しているところが結構あるようだ。

 記事のとおり、大阪府橋下知事が何故かこの制度に強硬に反対しているのだが*1、自分はこのボランティア特別休暇制度の活用を、行政が先頭に立って奨励すべきだと考える。人員不足で悩む被災地自治体としても、行政組織の仕組みを理解している人にどんどん来てもらったほうが、色々と助かるに違いない。もともと、日本の有給の日数や消化率が諸外国に比べて非常に低いので*2、既存の有給の消化を奨励するだけでも随分と違うはずである。

 当たり前だが、被災地の自治体や被災者からすれば、可能な限り社会の第一線で活躍している人が、ボランティアに参加してもらうに越したことはない*3。ボランティア特別休暇制度は、それを大きく可能にする制度である。CFWなどとは異なり、基本的に既存の制度の枠内で、新たに財源を投入する必要も全くなく、やる気になれば今すぐできるものである。そして、職種でいえば自治体職員である公務員がより多く参加してもらったほうが有難いはずである。

 自分も詳しいわけではないので発言に躊躇してきたが、義捐金や身一つでボランティアに参加するだけでけではなく、CFWでも、ボランティア特別休暇制度でも、あるいはふるさと納税などでも、被災地支援のための使える制度を、行政やマスメディアはもっともっと大々的に宣伝していくべきだろう。もちろん、関心を有している人にとってはこれらの制度は周知のことだろうが、特段に意識していない人にも自然と情報が入るような宣伝の仕方をすべきである。

*1:もちろん知事が全面的に間違いで、民間で活用しているところは既にたくさんある。それにすでに指摘されているように、「有給」とボランティアとは別に矛盾するものではない。

*2:http://www.kokudokeikaku.go.jp/share/doc_pdf/2368.pdf

*3:ある程度事態が落ち着いたことを前提として、物見遊山のボランティアも自分は全く否定しない。一部のまじめな人の中には、ボランティアに厳しい要求をしている人もいるが、それは危険な考え方だと思う。

働ける被災者に仕事を

atプラス 08

atプラス 08

 最近は被災地の自治体の首長も、「今一番何が欲しいですか」と問われると、「働ける被災者に仕事を」と答えるようになっている。遅ればせながら、関西大学の永松伸吾氏のキャッシュ・フォー・ワーク(CFW)事業に関する文章を色々読んでいる。震災直後から話題になっていたCFW事業であるが、その頃は雇用の話はまだ時期尚早と、勝手に禁欲していたところがあった。

 細かい問題は永松氏などが既に詳細に論じているので敢えて立ち入らないが*1、復旧作業をどういう形でやるべきかについて、民間企業、行政、ボランティアそれぞれの役割と限界を踏まえてよく考え抜かれており、まず仕事という場を通じて地域の「社会関係資本」(湯浅誠氏の言うところの「溜め」)を再建することが、人々にやりがいや生きがいを与え、真の自立的な復興を可能にするという理念には深く共感できるところがある。

 今回のような大災害は、ややもすると「被災者」とそれ以外の「恵まれた人」という二分法を強化し、この数年の間ようやく声を上げるようになった、その中間にいる失業者や「ワーキングプア」の存在を不可視化してしまう危険性がある。また、実際そうなりつつあるようにも思われる。そうしないためにも、雇用の問題がこれから震災復興の前面に出る必要がある。

 いまのところCFWはみんなの党が積極的で、既に政府も一定程度取り入れているようだが、現段階でどの程度まで進んでいるのか、ネットやテレビの情報だけではよく分からない。むしろ最近なって情報が減っているような印象もある。いずれにしても、「頑張ってください」と義捐金を送るだけではなく、真に頑張るための社会的な環境整備がこれから鍵になるものと思われる。

確率論に迷い込む前に

@HeizoTakenaka
竹中平蔵

30年で大地震の確率は87%・・浜岡停止の最大の理由だ。確率計算のプロセスは不明だが、あえて単純計算すると、この1年で起こる確率は2.9%、この一カ月の確率は0.2%だ。原発停止の様々な社会経済的コストを試算するために1カ月かけても、その間に地震が起こる確率は極めて低いはずだ。

http://twitter.com/#!/HeizoTakenaka/status/67726323170283520


 竹中氏のこのつぶやきをめぐって、何だか「確率論的におかしい」と「確率論的には間違っていない」の対立になっているのだが、それ以前の問題として、この発言は明らかに不適切だろう。このことを誰も指摘せず、竹中氏の「確率的にはリスクは低いのだから拙速に原発を止めずに経済合理性を計算すべき」という、政策論的主張そのものが見事なまでにスルーされているのが不思議である。むしろ「確率論的には特に間違っていない」という、竹中氏にとっては実はどうでもいい擁護論が増えている*1

 そもそも福島第一原発事故で、それまでの専門家による安全審査の確率論を否定する「想定外の事態」が次々と起こっている。むしろ確率論的には「想定外」のことが起こる、というのが原発事故だとすら言えそうである。この状況を目の前にして、これだけの低い確率だから「まだ安全で余裕がある」かのような考え方を平然と語れる時点で、根本的に間違っているとしか言いようがない。批判している人も確率論に迷い込む前に、この常識的なレベルで十分批判可能なはずである。

 そもそも素人目に見ても、地震原子力についてはまだ未知の領域、人間の技術ではコントロールできていない領域が非常に多い。昔は活断層が知られていなかったように、東海地震が30年間で87%というのも、その未知の領域がないことを前提にした、あくまでとりえずの仮定の数字であろう。この数字が出しているメッセージは、浜岡原発が巨大地震が起きやすい地盤の上にあり、いつ起こってもおかしくない危険な状態である、という以上のものではない。というか、多くの人々は常識的にその程度に受け取っているし、またそう受け取るべきである。

 だから、1か月で0.3%以下だという確率をはじき出し、そこから「まだ安全」であるかのように解釈して、それを前提に政策論を組み立てる思考法は、実に無邪気で危険としか言いようがない。もっと正直に、「やたらに原発を止めれば放射線被曝のまえに経済の停滞で国民が殺される」とはっきり言うべきだろう。


(追記)

 お前は原発政策をどうすべきだと思っているのかと言われれば、日和見と言われそうだが「わからない」と答えるしかない。菅首相の決断を熱烈に支持している、というわけでもない。ただ竹中氏の「確率的には低いからまだ安全」であるかのような言い方が、途方もなく間違っているということを言いたいのである。そして、この間違いに乗っかって確率論論争に興じている人も、やはりその間違いに輪をかけているようにしか見えない。

 反原発学者の小出裕章氏は、人間的には立派な人だと思うし、その基本的な理念は共感する部分も多いが、原発を即時にすべて止めるべしとか、エネルギーを使わない生活にシフトすべきとか、そういう主張についてはやはり承服しかねるところもある。

 ただそれ以上に、現状原発がないと経済が回らないという妙な現実主義を振りかざす人には、強い違和感を抱いている。現実は簡単に変わると言っているのではなく、自分が「現実」をトータルに知っているかのような、その口ぶりがひっかかるのである。頭がよさそうな振りをしたがる知的顕示欲の強い人というのは、いつの時代でもいるわけだけど、かつては理想や理念を語ったものだが、最近は逆で、やたらに「現実はこうなんだから」という話をしたがる(そして「現実を分かっていないあいつはバカだよなあ」というコミュニケーションで盛り上がる)傾向がある。


(愚痴)

 こういうエントリを書くと、何だか統計や確率を軽視している、みたいな批判が必ず来て本当にうんざりしてしまう。竹中氏の確率論が間違っているというのではなくて(それ自体は擁護論の人のほうがたぶん正しいと思う)、使い方が根本的に間違っている、確率論の能力を超えた問題まで確率で論じようとするべきじゃない、という話でしかないのだけど。

 言うまでもなく、自分が統計や確率を軽視したことなど一瞬たりともないし*2、統計や確率がある特定の観点に従って複雑な現実を整理・単純化したものにすぎないということを本当の意味で理解していれば、こんな批判が書けるわけがないのだが。

 自分はごくごく当たり前のことを言っているつもりなのだが、なにか確率論否定に見えるのだろうか。それとも自分の書き方がまずいのだろうか。

(愚痴2)

 追記に追記を重ねるのは本当に自分の悪い癖だが、上の追記を書いた後でも自分の文章が統計や確率論よりも「直観」や「常識」が大事であるかのように読まれていて、さすがにこれには頭を抱えた。やはり、どこかで確率論を否定するようなことを言ってしまっているのかもしれないと思う。

 当たり前だけど、近代国家は統計や確率論がなければ、政治家や官僚は何も決められないし、そうした数字を無視した政策論など絶対にあってはならない。実際、「30年で87%」が今回の決断に影響したわけである。この数値は、「原発を置くのはリスクが高すぎる」と捉えるのがやはり当り前の判断であり、実際地震学者もそうしたものとして提示している。

 竹中氏のように、1か月単位で割ってリスクを小さく見せかけるのは、地震の起こるメカニズムがロシアンルーレットのようなものだという仮定を置いて、かろうじて許せる論法だろう。実際はこんな仮定に意味がないというのは、計算する前に気づかなければいけない。確率論が踏み込めない世界にまで、現実的に無理な過程をおいて確率論で自説を正当化しようとするのはナンセンスということ。


(まとめ)

 「何を言っているのか分からない」という指摘があって、読み返して確かにそうだと思って、まとめ直しました。

(1)そもそも竹中氏のつぶやきは、確率論以前の、「原発事故リスクよりも経済停滞リスクを重視すべき」というエコノミスト的立場からの主観的主張に過ぎないのに、それを大雑把な確率論で糊塗するべきではないということ。竹中氏は確率を緻密に計算した結果の上で結論を出しているわけでは全くなく、最初から「結論ありき」で、その正当化のために確率論を利用していることは明らかである。

(2)地震のメカニズムがロシアンルーレットのように起こると仮定すれば、竹中氏の計算も確かに一理あるが、そうした仮定自体がおよそ適切ではないということ(もし地震学者がそういう仮定で地震を理解しているというのなら訂正するが)。それに、もしロシアンルーレットだとして、適切な例えではないかもしれないが、まず考えるべきは拳銃から弾を抜くこと(つまりリスクの高い原発を止めること)であって、「0.2%なんだから大丈夫!引き金をひけ!」ではないだろう。また竹中氏の計算法だと、時間が経つほどリスクが上がるのだから、リスクが上がらないうちに早めに止めたほうが合理的だという結論にもなる。

(3)原発停止の判断根拠は、「近い将来に巨大地震による事故が起こる蓋然性が極めて高い」ということが、専門家の知見で言えれば十分である。そういう蓋然性やリスクを判断する材料として、当然ながら専門家による確率論的な計算は絶対に不可欠であるが、ここで言っているのは、地震原発のように科学技術的に不確定要素が多く事故リスクが巨大なものについて、今月は0.2%だからまだ大丈夫だ(あるいは20%になったからもうヤバくなった)、といったような議論が根本的に不毛で危険であるということ。巨大地震が起こる確率の計算技術を、降水確率程度の正確さを出すまでに到達させるには、まだまだ膨大な年月がかかることだろう。小出氏も言うように、原子力のような高リスクの技術については、「安全余裕」は確率論からすれば過剰反応と思えるぐらいに取っておくべきだというのが、今回の原発事故であらためて明らかになった科学技術の鉄則だろう。

*1:どうでもよくなければこんな雑な計算をツイッタ―に書き込んで満足せず、最初から自分で緻密に計算して提示するはずだろう。

*2:ただ他の人と異なるのは、今までの通念的理解と統計が食い違っていた場合、他の人は今までの通念的理解を全否定する側に回るのだが、自分はそういう通念的理解が広まっているのも、何かしらの根拠があるのだろうと考える点にある。ほかの人から見ると、そういう思考様式自体が「統計の否定」に見えるのだろうか。

全く信用できない

Q:なぜ、合理的に説明できない原子力発電が推進されてきたのか?


日本の原子力は全体が利権になっている。電力会社はとにかく地域独占を崩されたくない、送電と発電の一体化を維持したい。それを守ってくれる経済産業省の意向を汲む、天下りをどんどん受け入れる。経済産業省にしてみれば、前任者のやってきたことを否定できずに来た。原子力、核、放射線と名前の付いた公益法人独立行政法人、山ほどある。そこにお金を上手く回して天下りさせる。電力会社も広告宣伝費で協力金を撒いてきた。自民党献金を受け、パーティ券を買ってもらった。民主党は電力会社の労働組合に票を集めてもらっている。学会も電力会社から研究開発費をもらい、就職先を用意してもらってきた。さらに政府の意向に沿った発言をしていると、審議会のメンバーに入れてもらえる。マスコミは広告宣伝費をたくさんもらって、原子力政策の批判はしない。みんなが黙っていれば、おいしいものがたくさんある。そういう状況が続いてきた。


http://news.livedoor.com/article/detail/5525056/?p=2

 衆議院議員河野太郎が「脱原発」を盛んに主張している。正直、そのこと自体にも若干の違和感があるが(彼が「脱原発」の主唱者だとは震災以前は私を含めて知っていた人は少なかったはずだ)、もっと問題なのはやたらと「利権」「癒着」の論理で批判していることである。しかも、その批判に共感している人が結構多い。

 言うまでもないが、もし「利権」「癒着」があったとして(政府の予算がついて回る場所にはどこにもあるに決まっている)*1、今回の事故と因果関係があるかどうかは不明である。完全に競争民営化されていたとして、事故は防げなかった可能性、より深刻化した可能性はいくらでもある。その時は、「市場原理主義的な利益・効率優先の思想が安全性を犠牲にした」という批判が、大合唱で起こるのだろうと思う。要するに、何とでも言えるのである。

 だがそれ以上に「利権」「癒着」批判が根本的によくないのは、東電、保安院原子力安全委員会など、現場の専門家の説明を誰も信じなくなってしまうことにある。現場の専門家が「利権」「癒着」で汚されているという話になれば、たとえ正しいことを言っても、全く信じてもらえなくなる。結果として、人々の間の不信や不安を増幅させ、デマに対する耐性が弱くなり、過剰に危険性を煽る言説が拡散しやすくなり、風評被害や避難住民への差別をより悪化させてしまう。

 デマをデマをして批判する人は多いが、デマ拡散の強力な「燃料」である「利権」「癒着」批判に対しては、正直言ってあまりに甘すぎる。非常時における「利権」「癒着」批判は、デマそれ自体よりもはるかに危険で悪質であることが、きちんと認識されなければならない。「利権」「癒着」批判をしながらデマにも騙されていない人もいるが、それはその人が(一日のかなりの時間をインターネットに費やせるような)「情報強者」の立場にあるからであって、仕事で普通に忙しい一般の「情報弱者」は、「利権」「癒着」批判をどこかで耳にすればデマを容易に信じてしまいやすくなることは確実である。

 反原発原子力専門家としてにわかに脚光を浴びた京都大学小出裕章氏だが、もちろん専門的な問題についての評価は保留するとして、自分が意外に思って感心したのは、小出氏が不倶戴天の敵である原発推進派に対して、「利権」「御用学者」的な批判を一切していないことだった。小出氏によると、原発政策の推進派学者が当初思い描いた通りの技術革新は起こらず、さらに「もんじゅ」などの想定外の事故が次々と起こり、色々な行き詰まりをなんとか弥縫しようと、プルサーマル原発などより危険なものに手を出しはじめて、様々な無理が生じて苦労を強いられているのだという。つまり原発推進派の専門家も、彼らなりの夢や使命感があったのだが、途中で行き詰り、しかし今更引き返すこともできなくなっている状況にあるというわけである。この説明は非常に説得力があると思うが、「利権」「御用学者」的な批判の文脈からは、こういう問題は全く見えてこない。利益につられて悪魔に魂を売ったという、馬鹿馬鹿しい話以上のものにならない。

 河野太郎は、もっと被災者・避難者を主語において、その救済・支援のために何が最も効果的であるのかということを中心に話をしてほしい。「利権」「癒着」批判に大部分を費やしている時点で、自分はこの人を全く信用できない。

(追記)

 予測はしていたが、やはり今の状況だとこういう意見は反発を生みやすい。しかし何度も言うが、原発問題を「利権」の問題に還元してしまうと、東電や専門家自身が既に原子力を持て余し、延々と問題を先送りするような対処法を取らざるを得なくなっているという、小出氏が指摘した問題が見えなくなってしまう。「利権」こそが問題の根源だということになると、天下りをやめろとか、東電を解体して完全民営化しろとか、そういう結論になってしまう。繰り返すが、それは今の原発事故問題とは直接関係ないし、それをしたところで安全性が向上するわけでは必ずしもない。少し考えれば誰でも分かることだ。

 個人的には、今回の事故では原子力安全委員会に対する怒りが大きい。保安院や東電はある意味で原発を推進・正当化して「安全性」を強調するのが「仕事」というところもあるが、メンバーの多くが大学に籍を置いている原子力安全委員会は、純粋に科学技術的な見地から危険性を指摘すべき立場にあったはずだからである。原子力安全委員会は東電や保安院に比べても動きがかなり遅く、しかも政府の対応にそれなりの影響を与えているにも関わらず、メディアの露出も多くなく、あまり批判の矢面に立っていない。今回の子ども年間20ミリシーベルという判断も原子力安全委員会によるものだが、さすがに自分もこの場当たり的判断はひどいと言わざるを得ない。原子力安全委員会は、専門家の信頼性を自分たちでどんどんぶち壊しているとしか思えない。

 だからと言って原子力安全委員会を「利権」の名のもとに批判することは全面的に間違っている。素朴な言い方だが、「ちゃんと専門家としてやるべき仕事をしろ!」と言う意外にないのである。あの小出氏も、論敵の原発推進派の学者を厳しく非難することなく、「私なんかよりもはるかに必死だと思うし、なんとか必死に頑張ってほしい」と語っていたことが印象的だったが、反原発という氏の主張は脇に置いておくとして、「利権」批判に興じている人も少しは小出氏の態度を見習うべきだと思う。

(利権について)

 批判を頂戴しました。

 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110501

 河野太郎がより大きな「原発体制」を問題にしているというのはわかる。しかし、「利権」という批判の仕方には、利権者の意志や決断ひとつでそれが放棄できるかのようなニュアンスがある。もし本当にそうであれば、利権批判も少しは意味があるかもしれない。しかし、もし「利権」が「原発体制」の問題だとすると、その「解体」には福島第一原発廃炉以上の長い長い時間がかかるだろう。そう考えると、この非常時における利権批判は、現場の専門家への不信感を煽る以上の何の意味もない批判である。

 「利権」が問題だというのは、利害関係者が固定して外部者が排除されているということ自体が問題なのであって、非常時にはむしろ脇に置いて、現在は利権にまみれていようが何だろうが、現場の専門家を全面的にバックアップするべきである。自分の河野太郎に対する批判は、第一義的には、彼の批判の仕方が現場の専門家の足を引っ張って、目の前の問題解決を阻害する危険性があると考えるためである。

 河野太郎は政治家だから、一種のアジテーションも仕方がないとして、周囲までがそれにまじめに付き合う必要は全くない。「利権を守りたいがために不合理な原発を推進してきた」というよりも、原発推進派自身が膨大なリスクを抱えきれなくなって不合理な選択を延々と続けざるを得なかった、という小出氏の理解のほうが真っ当な人間観に基づいているし、そしてより「社会学的」であるように思う。

(小出氏について)

 何度も言及した小出裕章氏だが、内容そのものの是非は保留しておくが、やはり人間的には大変に魅力のある人である。自らを周辺に追いやってきた専門家にも、それでも「なんとか頑張ってほしい」と期待をかけ、この事態を止められなかったことを、何度となく無念の表情で謝罪している。特に共感したのは、「危険なものを過疎地に押し付けるのは差別でしかない」という氏の根本理念である。小出氏の話を聞いた後だと、やたらに鬼の首を取ったように元気に東電や経産省を攻撃する河野太郎は、どうしても胡散臭く感じる。

(どうでもいい話)

 SUMITAさんの「循環的な相互依存関係」という表現が、自分は全く理解できない。「循環的な相互依存関係」というと、「利権の構造」というよりは「連帯」や「友愛」をイメージさせるのだが・・・。社会学はある種の経済学者ほど視野狭窄で傲慢ではないけど、どうにでも解釈できるような表現を濫用する人があまりに多すぎる。社会学というのはそういうもんだと言われてしまえば、そうかもしれないという気はするが。

 経済学は「子どもが扱うと危険な刃物」と以前に表現したことがあるが、社会学って「殺人鬼が振り回しても誰も怖がらないおもちゃ」みたいなところがある。まあ、ちょっと言い過ぎかもしれないけど*2

(訂正)

 原子力安全委員会は、子ども1年間20ミリシーベルトという判断に当初から反対だったらしい*3。ただ斑目委員長は容認しているので、何だかよくわからないが。

 個人的には批判されるべきは東電よりも、大学に所属している原子力の専門家だと思っている。東電の社員はある意味で「安全性」を宣伝しないと飯が食えない人たちであり、そして独占企業とは言え民営化されている以上、一概に「何で嘘をついてきたのか」と責められないと思う。それに対して大学の先生は、安全だと言えば生活が保障されるという仕事の仕方をしていない。にも関わらず、東電や経産省以上に「安全性」を強調し、そのお墨付きを与えてきた経緯がある。

 もちろんこれは「利権」などというものではなくて、「科学は常に現実によって乗り超えられる、そしてその事実こそが科学を発展させる」という単純な事実を、本当の意味で理解していなかったことによるものである。これは、物理より遥かに不確定要素の多い現実を扱っているはずの経済学系の多くの人にも感じることである。

*1:記事には「歴代政府が推し進めてきた原子力行政は利権まみれの歪んだものだった」とあるのだが、これ自体が漠然としてよくわからないし、「利権」のない政府関連事業とはいったい何なのだろうか。結局、問題が起こるとそこに「利権」を発見しては問題を理解したつもりになって安心したい、というだけの話に過ぎない。

*2:追記。やはりこれは言い過ぎで、断っておくと、あくまで10年ぐらい前にメディアで流行した社会学者さんたちをイメージしたものである。むしろ、理論社会学会の中心にいる人たちの中には、ハードな階層問題や社会保障問題に造詣の深い人も多い印象がある。むしろ最近心配なのは、ネット上などで経済学という切れる刃物を、おもちゃのように論じている人が多くなったこと。自分も反省しなければいけないけど。

*3:http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011050201001092.html

再分配が伴わない増税は避けるべき

 「復興財源」に関する議論が盛んだが、消費税増税でまかなうという方法には基本的に反対である。

 税はあくまで、治安や教育・社会保障など、市場では効率的に資源が分配することが困難な、特に恒久的な財源を必要とする分野への再分配の手段である。市場と政府のいずれが資源配分を担ったほうが人々の負担がより減るのか、という選択肢の中ではじめて増税という手段がでてくる。だから、そういう選択肢が立つ以前の段階の、しかも今回のような緊急的な(といっても長期的だが)、被災した人の生活支援やインフラの復旧といった目的には、やはり消費税増税はそぐわないと考える。

 もともと消費税という税制のよさというのは、効率的で安定的に徴収できるという以上に、低所得者年金生活者も少しづつ(そして所得に比べればやや過分の)負担に応じているという事実が、分配の対象を「恵まれない人」に限定しないような、普遍的な社会保障制度の基礎になることにある。だから、被災者支援のように分配の対象が明らかに「恵まれない人」に限定されている場合、消費税は適切な手段ではない。

 反対する人は、「被災地の人たちを直撃する」と情に訴えた言い方をするが、むしろ問題は被災していない地域の経済に打撃を与える可能性である。そもそも消費する能力を奪われているくらいひどい状態の被災者は税負担すらできないし、消費する余裕が少しでもある被災者も最低限税負担に応じた分配を受けられる可能性が高いが、被災していない地域では税負担に応じた再分配が全く施されないので、そのまま経済を直撃してしまう可能性が高い。いずれにしても、再分配が伴わない増税は可能な限り避けるべきであると思う。

 消費税増税か日銀による国債引受けかという、極端な二項対立にもっていこうとしている人もいるが、もう少し現実的で多くの人が納得するような案を出してきて欲しいと思う。後者の意見については、個人的にはとても魅力的に思われるが、経済や財政の専門家の多数は明確に反対しており(ゆえにその実現に固執すると単に政治的混乱を招いて震災復興の足を引っ張る可能性が高い)、また批判に対する十分な応答もなされていないように感じる。

(追記)

 断っておくと、普遍的な社会保障のための増税は「当たり前」で「すぐにでもやるべき」だと思っている(今はまだ社会保障の議論そのものをすべき段階ではないが)。そしてその手段が消費税ではダメな理由も、基本的にはないと考える。今復興財源の増税を否定している人の多くは、「税の社会保障の一体改革」における増税論議も全否定していたが、これは全面的に間違っていると考える。

 自分からすると、復興財源のためとして増税に一生懸命な人と、社会保障財源の増税をも否定する人とは、同じ穴のムジナにしか見えない。とくに両者に共通する、「増税しないと財政破綻」「増税すると大不況到来」という、終末論的な語り口はどうにかならないものかと思う。


(追記ばかりで恐縮)

 断わっておくと、これは消費税以外の現実的に取りうる手段が尽きていないということを前提にした反対論であって、今はなお原則論にこだわるべきでない緊急時であることもあり、もし手段が尽きてしまったらその限りでは全くない*1

 さらに言えば、自分は経済にダメージを与えるという理由で消費税増税に反対しているのではない。というのは、被災者支援と被災地復興を強力に推し進める最も効果的かつ現実的な政策を採用するということが最優先で、その政策自体が少々経済にダメージを与える性質のものであったとしても、やはり採用されるべきだからである。もし景気の問題を考えるのであれば、別に経済の活力を与えるような方法を提案すべきである。震災復興の問題で、まず経済や財政の論理を出発点にして話をする人がいるが*2、やはりそれは根本的に間違っていると考える。

 それにしても、世の中にはもっと憤るべき悲惨な現実があるのに、「消費税」というニュース(ほとんどの場合はそういう話が会議で出たというだけの)が流れただけで瞬時に激怒してツイッターなどで罵詈雑言を書き連ねる人たちの議論は、さすがにもう真面目に聞くに値しないという感じがする。日銀の国債引き受けという考え方に魅力を感じる自分ですらそうだから、そもそもこれを「禁じ手」と思っている人はなおさらだろう。

*1:もちろん、自分はいろんな専門家の意見を眺めても、全く尽きていないと理解している。ただ日銀の国債引き受けに関しては、専門家の間の合意が明らかに難しそうなので、一方的な口調で与謝野馨財務省を批判するのではなく、現実的な落とし所を考えるべきだろう。

*2:専門家は職業病で仕方ないにしても(ある意味で悪いことではない)、ツイッターでくだを巻いている素人までが付き合う必要はない。

一月あまり経って

 依然として余震も多く、この一月あまりの間に起こったことをいまだに現実として消化できていない感じだが、前回の追記のようなものとして。

 現場の専門家を、その専門的な知識以外の水準(「利権」とか「御用学者」とか)で批判することが*1、デマの拡散を強力に後押すると前回書いた。その上で、専門家の専門的知見を批判するときに絶対にやってはいけないと思うのが、「理解ができない」「わけがわからない」という批判である。

 「理解ができない」「わけがわからない」というのは、つまり普通に勉強・研究していればおよそ有り得ないくらい相手が間違った意見を持ってしまっていることに、怒りを通り越して驚き呆れている、という嘲笑的なニュアンスを込めた批判である。しかし単純に考えれば、そんな意見はただ無視すればいいだけで、わざわざ言及して反論するまでもなく、勝手に相手にされずに消えていくのを待てばいいだけである。

 もちろん、「理解ができない」「わけがわからない」意見が一定の政治的・社会的な影響力を持っている場合は、どうしても批判が必要になるかもしれない。その時は、代表的な(可能な限り政策や学界の中心に近い)人物を一人取り上げて徹底的に実証的・論理的な批判を(好みとしてはストレートな怒りを込めて)加えつつ、その上で、どうしてそうした「わけがわからない」意見が影響力を有しているのかの、学問上あるい政治社会的な根拠について、きちんと説明を与えることが専門家としての責務だろう。少なくとも、ある一定の社会的立場を獲得している専門家の主張が、「理解ができない」「わけがわからない」ということは基本的に有り得ないというか、そういう地点から出発しなければならない。

 しかし残念なことに、専門家の中には「理解ができない」「わけがわからない」意見に直面すると、こうした責務を愚直に果たそうとする前に、属性批判や「利権」批判、あるいはイメージそのものを貶めるような形の批判で応答してしまう人がいる。もちろん中には、「もう実証的な批判はさんざんやってきた」と、泣き言を言いたくなる人もいるかもしれないが、自分だったら、敵対者がそういう態度に出たら「もう勝ったな」とほくそ笑むか、真面目に読むに値しないと徹底して軽蔑するかのどちらかだと思う。「理解ができない」「わけがわからない」という批判は、あらかじめ味方だった人と共感し合う以外の何の効果もない。

 事態が長期化して懸念されるのは、「癒着があるから対応がまずくなっている」といった類の*2、根本的でない批判がますます増え、真になされるべき政策論を阻害することにある。少なくとも理系でも文系でも「科学者」の名を背負っている人たちには、こういう非生産的な批判を敢然とはねつける知性を期待したいと思う。

*1:それにしても、「利権」「癒着」批判に並々ならぬ執念を燃やす人というのは、昔から全く好きになれない。こういう人の中には自称「自由主義者」も大勢いるが、もし「自生的秩序」を重視するなら、「利権」「癒着」にも一概に否定できない根拠があるかもしれない、という反省的思考が出てこなければおかしいだろう。たぶん、こういう人は世の中が透明で凸凹がないことを「自由」と呼んでいるのだろうが、自分からすれば、それはかつて「社会主義」に対して感じた拒否反応と同質のものである。

*2:別の側面から見れば、「癒着」が意思疎通をスムーズにしているという言い方だって可能だろう。「脱官僚」の一方で、現実的裏付けのない政策論や不用意な発言で激しい批判に直面している民主党政権の現状を見ていれば、特にそうである。

よらしむべき、知らしむべからず

 原発事故などについて、「デマに騙されるな」という言い方が政府からツィッターに至るまであり、デマ言説をまとめて注意喚起に努めている人も大勢いる。それ自体はもちろん大事なことだけど、そもそもデマが広まる温床を拡大させるような言説についても、厳しい批判の目が向けられる必要がある。つまり、首相と閣僚はこの期に及んで「政治主導」のパフォーマンスしか考えていないとか、官僚や東電が都合の悪い情報を隠しているとか、「利権」「癒着」によって保身的な行動に走っているとか、テレビで「ただちに健康被害はない」と解説している専門家は「御用学者」でしかないとか、そういうものである。

 言うまでもなく、こうした批判は真実を含んでいることがあるとしても、結局は根拠のない主観的な印象論でしかない。「利権」「癒着」に至っては、繰り返すように政府の予算が投入されている分野すべてに見出させるというしかないし、少なくとも緊急の問題解決にとって何の意味もない批判である。政府や専門家を批判する場合は、自分たちのほうがより確実で効果的な情報や解決方法を提示することができる、という根拠をしっかりと示さなければならない。それをしないままに、「情報を隠している」「利権で保身に走っている」と批判すれば、人々は政府や専門家が何を語っても疑いの目を向けるようになる。その結果、「何を信じたらいいのか」という不安を人々の間に蔓延させ、そのことがデマを拡散させる温床になるわけである。

 このような不信を喚起する言説は、いかにも悪質なデマとは異なり、ある種の真面目な怒りや正義感に根ざしている場合が多いので、かえって厄介なところがある。しかしデマの拡散は、やはりこうした不信の言説ぬきにはありえないのである。「東電と癒着している保安院が本当の情報を出すわけがない」という言説は、放射能汚染を誇張するデマの拡散を強力に後押しする。

 ちなみに東電や保安院を批判する際に、「よらしむべき、知らしむべからず」という表現を使っている人がしばしばいるのだが、個人的にはこの表現は「指導者や専門家は人々に信頼されなければ、どんなに情報を与えたところで信じてもらえず意味がない」と解釈したほうが、含蓄があるように思える。もちろん、信頼獲得と情報の公開とは現実に切り離せないものだが、どちらがより根本かと言えばやはり信頼のほうであり、だからこそ信頼そのものを解体させるような言説を垂れ流している人たちには、常に厳しいを目を向けなければならないと考える。

(追記)

 ここで書いたことで意図したことがほぼその通りの、ある社会学者さんの文章があったので、紹介しておきます。

◇ひとたび「信頼性」が失われると◇


多くの人々にとって「事実」が何か分からなくても、通常それほどの混乱が生じないのは、報道がもつ「信頼性」によるものである。プロの記者、その所属先であるマスメディア、それを監督する政府……などといったかたちをとる、一連の「体制」のようなものへの「信頼性」である。


この「信頼性」は必ずしも確たる根拠をもたないし、もちようがない。しかしそれがなくなったときにこそ、流言の発生が不可避となる。そしていったん生じたら、流言なのか事実なのかの区別が重要でなくなり、長い時間が経つまで打ち消すことができなくなる。


清水によるこうしたジレンマの指摘は、「情報公開が十分ではない」という内外からの批判(それ自体は妥当な批判であるが)に対し、日本政府や関係者がかなりの程度情報をオープンするようになった後も、一向にここでいう「流言」が止まないこと、混乱が収まるどころか拡大するばかりにすらみえる事態を、見事に予言しているようにわたしにはみえる。


http://synodos.livedoor.biz/archives/1727279.html

 専門家に対する信頼は言語化できるような根拠があるわけではなく、非常に微妙なところで成り立っている。そうした根拠の乏しい信頼感が、かろうじてパニックや流言の散乱を防いでいる。「東電と経済産業省が癒着している」「政府の原発推進のための御用学者」という類の言説は、そうした信頼感を破壊する以外の何の役割も果たさない。

 デマをデマとして批判することに熱心な人は多い。しかし「利権」「癒着」「御用学者」という類の言説を垂れ流している人に対する批判は少なく、しばしば真摯に問題を啓発しているようにも見えてしまうことが残念である。だが、こうした指導者や専門家への不信を煽る言説は、明らかにデマを広めるにあたって決定的な役割を果たしており、単なるデマ以上に厳しく批判されるべきである。もし一刻も早い問題解決を願う心が言わせているのだとしたら、ただちにやめてほしいと思う。デマの危険性は言うまでもないが、不信の言説はそれ以上に危険であることがしっかりと認識されなければならない。

 当たり前だが、「利権」「癒着」に対する攻撃は、政治学の利益団体論などとは全然違う。利益団体論は、少なくとも利害関係の「構造」を問題にしているが、この手の言説は東電幹部や官僚の悪意を懸命に読み込もうとする。言うまでもなく、政治学社会学が構造を描くのはあくまで事態を俯瞰的に観察・分析するためであって、構造自体を批判の対象にするためでは必ずしもない(それが背景の動機のあることは確かだが)し、またそんなことは全く意味がない。