日本の首相が頻繁に交替する理由

<中国人が見た日本>なぜ日本は首相がコロコロ代わっても安定が保たれているのか?

http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=53920


菅直人首相が26日、正式に退陣を表明、新しい首相が30日に誕生する。この10年、日本の首相が走馬灯のように頻繁に代わることはもはや日常茶飯事になっている。誰もが認める強硬派、小泉純一郎氏の在任5年を除き、他はみな短命に終わった。ところが、驚くべきことに日本は「首相がコロコロ代わる」という頑固な病を露呈したにも関わらず、社会の安定は全く変わらない。政府の運営にもさほど大きな影響はないようである。


第2次世界大戦以降、先進国の中でリーダーの任期が最も短いのは日本だ。首相の平均任期は26カ月。これに対し、ドイツは88カ月だ。戦後、日本は少なくとも31回首相が代わった。だが、米国、英国、フランス、ドイツは少ない国で8回、多い国でも13回に過ぎない。日本は経済、文化、科学技術で抜きんでており、世界中から注目を浴びているが、政治だけはどうも「しょぼい」という感覚が拭えない。


日本はなぜ首相がこれほど頻繁に代わっても、経済や社会に大きな影響がないのか。それは、体制が国を治めているからで、人が国を治めているわけではないからだ。重大な政策や方針はほぼ固まっており、合理的な制度や健全な政治体制も整っている。制度が成熟した国はたとえ「無人運転」でも、社会の秩序は保たれるのである。

 体制が安定しているからこそ指導者が頻繁に替わるという視点は面白い。これは、体制が潜在的に不安定だからこそ強力な指導者の「人治」を必要とする、中国人ならではの視点だろう。自分も、政局の混乱が直接社会経済に深刻な影響を与えているわけではないので、頻繁な首相交替自体は特に問題だとは思っていない。しかし、中国の指導者のように、油断すると群衆暴動が起きるという緊張関係の中で政治を行っている国は、さすがに世界の多数ではないだろう。他の先進諸国も体制はおおむね安定しており、その中で1年前後で国の指導者が交替している国が日本だけなのは何故なのかについては、日本の政治を理解する上で考えてみる価値のある現象である。

 日本の首相が頻繁に交替する理由は、直接的には、よく指摘されるように「ねじれ国会」である。安倍政権以降の自民党の首相交替も、2007年の参議院選挙の大敗に端を発する「ねじれ国会」が原因だった。しかしより重要なことは、2009年8月の総選挙で民主党は圧倒的な勝利をおさめたが、それから翌年7月の参院選では大惨敗を喫したように、「ねじれ国会」を生み出している原因となっている、日本における政党支持の流動性の高さである。政権を獲得した総選挙から1年足らずの間に、実に民主党比例代表では1500万票を失っている。よく小選挙区制度を原因とする解説が見られるが、単純な得票数自体もかなり変動していることは一目瞭然である。

民主党の選挙得票数の推移(按分票は省略)


2005年衆院 比例24,804,786(36.04%)  小選21,036,425(31.02%) 
2007年参院 比例23,256,247(39.48%) 小選24,006,817(40.45%)  
2009年衆院 比例33,475,334(47.43%) 小選29,844,799(42.41%)
2010年参院 比例18,450,139(31.56%) 小選22,756,000(38.97%)

 考えてみれば、このように選挙ごとに支持政党をコロコロ変えるという日本の有権者の態度は、決して褒められたものではない。特に鳩山も菅も、10年以上にわたって民主党の指導的地位にあって、マスコミへの露出も頻繁で国民の認知度も高い政治家であり、その人間性指導力を知る機会はありすぎるほどあったのだから、首相になった彼らの「リーダーシップ」をあれこれと論難するのは無責任としか言いようがない。

 だが、民主党が全身全霊をかけて支持すべき価値や能力のある政党であるのかと言えば、それははっきり否定せざるを得ないだろう。アメリカの民主党の党員数が7200万(2004年)、韓国の民主党が164万(2008年)なのに対して、日本の民主党衆議院の多数を占める政権与党なのにも関わらず、26万人を超える程度しかいない。自民党の87万人や公明党の42万人よりもはるかに少なく、少数政党である共産党とほぼ同じ程度である。要するに民主党は、一部の大企業労組を除くと、支持層が安定的な形で組織化されていない。

 それだけではなく、民主党は党の綱領を作成していないように、政治的に何を目指している政党なのかを明確にしていない。例えばイギリスの労働党は、党員数自体は決して多いわけではないが(40万人ほど)、まだ政党が脆弱だった戦前から「揺りかごから墓場まで」「ナショナルミニマム」を一貫して掲げてきたように、労働組合を基盤として社会保障や再分配を重視する「大きな政府」を代表する政党であることは、誰の目にも疑いようがない。それに対して民主党政権は、この2年あまりを見ただけでも、どの方向を向いている政党なのかが全く判然としないし、この1年弱の菅首相と小沢・鳩山両氏との路線対立は、どう見ても党を分裂したほうが自然と思えるほど政策論的に大きな隔たりがあった。産経新聞のような保守派メディアは民主党を「左翼」と見て執拗に攻撃しているが、実際のところ民主党議員の顔ぶれを見ると、自民党以上に右翼的な思想の人が少なからず存在している。

 要するに、政党の支持層を経済的な利害や政治理念で組織化してこなかったため、リーダーの人格や能力に関わらずその政党を粘り強く支持する有権者がほとんどいないことが、容易に「ねじれ国会」を作り出し、頻繁な政権交替を招いている背景にある。1年以内で政党支持をコロコロ変える有権者の節操のなさを批判することもできるが、それ以前の問題として、日本の政治状況においては、首相や政党リーダーの「人柄」「やる気」「指導力」といったものでしか、有権者は選択のしようがないのである。2005年の郵政選挙有権者が支持したのは「民営化」ではなく、あくまで小泉元首相の「抵抗勢力に敢然と戦う改革への熱意とリーダーシップ」にすぎなかった。当時の民主党はそれに対して「民営化」そのものの是非を問うのではなく、「みせかけの改革」と批判するという戦略を採用して、「改革への熱意」を争点化する道を選択した。

 「改革への熱意」のような漠然としたイメージが政治の争点になってしまえば、有権者が選挙のたびに政党支持をひっくりかえすようになるのは当たり前である。個々の民主党議員には若くて頭の切れる人が多く、政策通も少なからずいる。しかし、テレビの政治討論番組や選挙戦になると、結局は「利権政治」「官僚主導」という言い方で自民党を批判するという論法に陥りがちであった(それを「わかりやすい」と持ち上げていた政治評論家やジャーナリストがいま民主党を批判している)。そして、政策論は「利権政治」「官僚主導」から脱却しているかどうかのイメージが最優先となり、政策の実現可能性や、個々の政策の間を首尾一貫的に統一させる政治理念の提示は後回しになってしまった。

 民主党がこうなったのも、この政党が長年対峙していた政権与党の自民党が、反市場主義者や護憲派を含む「包括的政権政党」であったことも背景にある。もともと自民党には地方後援会組織の緩やかな連合といった性格があり、小泉純一郎亀井静香与謝野馨といった、お互いに共通点のないほど政策理念が異なる人物が長年同じ政党に属し、しかもしばしば同じ内閣の一員でさえあった。つまり野党の側からすると、政策理念で差をつけようとしても、当の自民党議員には暖簾に腕押しであり、世論に訴えるものでもなかったため、「土建政治」「官僚政治」といった政権運営の在り方や支配の構造そのものをターゲットにせざるを得なかったわけである。かつての自民党も、政策や政治理念が支持されてきたというよりも、あくまで「執政党」として支持されてきたのであり、実際野党になった現在でも、相変わらず「現実的な政権担当能力」を「未熟な民主党」との違いとして看板に掲げている。
 
 冒頭の繰り返しになるが、日本では政局の混乱そのものが、直接国民生活に大きな影響を与えていない。しかしそのことは、有権者が他人事のように首相や政権与党を批判し、選挙ごとに政党支持を躊躇なくコロコロ変えることができてしまう原因でもある。とりわけ、組織的な利害から解放された年金生活者層が選挙を左右する存在になったことは、こうした傾向に拍車をかけているように思われる。もし日本で民主主義をきちんと機能させ、国民の政治意識を高めたいと言うのであれば、日々の経済や生活の中で政治の混乱を実際に体感できるような何らかの仕組みが必要であると思われるが、それはまた別に機会に考えたい。

(追記)

 個人的な仮説としては、2000年代半ば以降に選挙の帰趨を決定するようになった、年金生活者層の利害関心を既存の政党が組織化できていないことにも問題があると考える。

 年金生活者層においては情報源としてテレビの依存度が圧倒的であるため、どうしても各政党ともコストが低くて効果が大きい(リスクは高いが)こともあり、テレビのイメージに依存した選挙戦略を展開しがちである。また、良くも悪くも狭い経済的利害からは解放されているので、政治を自分たちの仕事や生活からではなく、最初から「国益」全体のことを考えてしまう傾向がある。つまり、「国の財政が厳しいのだからみんな我慢し、議員と官僚も自ら血を流して国民も増税を受け入れるべきだ」という主張に共感しやすい*1。日本でデフレ不況にも関わらず財政再建論が強いのは、財政が厳しいとか財務省の陰謀とかというよりは、多分にそれが(政治に真面目な)年金生活者層の共感を呼びやすいことに由来するものだろう。

 個人的には、年金の持続可能性が若い現役世代の充実した雇用と所得に圧倒的に依存しているのは明らかなのだから、年金制度を通じた世代間連帯と「福祉国家*2の再建を主張することで、年金生活者の利害関心をきちんと政治的に組織化しつつ、若年の非正規雇用層や失業者の支持も取り込んでいくような戦略が政党の中に生まれるべきだと思う。ただそのためには、民主党自民党も一度解体してもらう必要があるかもしれないが・・。

*1:断っておくと、ヨーロッパでは年金給付を削減しようとすると群衆デモが起こるので、年金生活層の態度は国によっていろいろ違いがある。

*2:ここでいう福祉国家とは公的福祉が充実した国家というだけではなく、非市場的な手段も積極的に活用しながら「完全雇用」の実現を目指す国家のことを指す。

「子どもは社会が育てる」べきか

 最近、一部で「子どもは社会が育てる」べきかどうかということが、話題になっている*1民主党は、子ども手当て政策に対する「バラマキ」批判に応答する際に、「子どもは社会で育てる」という理念をよく持ち出していたが、これに対して自民党は、7月に発表した「日本再興」の第6分科会「教育」の中で、「「子どもは親が育てる」という日本人の常識を捨て去り、「子どもは社会が育てる」という誤った考え方でマニフェストを作り、その予算化を進めている」と、育児責任は「社会」ではなく「親」にあることをはっきり明言している*2。現在の日本における家庭(特に母親)の育児負担の大きさと、それに由来する少子化児童虐待に対する問題意識が少しでもあれば、「子どもは親が育てる」というのはナンセンスとしか言いようがないが、世論の「バラマキ」批判のなかで子ども手当政策が撤回されたことにより、結果的に自民党の「子どもは親が育てる」という方向性が政治的に支持されている形になっている。与謝野馨と「税と社会保障の一体改革」の周辺も、品のない「バラマキ」批判はさすがに少ないとは言え、「財政再建」の論理が強いこともあり、子ども手当の防衛にはほとんど熱心ではない。

 自民党からみんなの党に至るまでの、現実における家庭と母親の育児負担の問題に冷淡な政治勢力には本当に憤りを覚えるが*3、では民主党に問題がなかったのかと言えば、それは大いにあると言わざるを得ない。実際、民主党議員が野党の子ども手当批判に対して「子どもを社会で育てる」と抗弁するのを聞くたびに、個人的には加勢する気持ちよりも違和感のほうが強く残っていた。その理由をここで簡単に述べておきたい。

 第1に前回の繰り返しになるが、民主党子ども手当て給付を税負担と対応させてこなかった、もしくは税負担との対応を全くアピールしてこなかったことである。「子育ての社会化」というのであれば、まずは育児負担の再分配という問題を先に考え、それを有権者に対して真正面から問うことが必要であったにも関わらず、給付の側面ばかりに重点を置いてしまったことで、「社会化ではなくバラマキに過ぎないじゃないか」という批判に説得力を持たせる結果になってしまった。

 第2に、公的な保育サービスの充実、母親の雇用保障、ワークライフバランスのための社会規制の強化、教育費の負担軽減など、ソフト面での政策が完全に後手後手になっており、子ども手当てだけが極端に突出してしまっていた。ヨーロッパ諸国における子ども手当ては、あくまで育児支援および社会保障政策の全体的なスキームの中の一つに過ぎないのに対して、民主党政権はそうした全体スキームの構築を怠り、結果として「子どもを社会で育てる」という理念への説得力も欠くものとなった。子ども手当てのような一律現金給付が、「子どもを社会で育てる」ことだと言われて納得する人がいるとしたら、そのほうが明らかにおかしい。

 第3に、自民党の「子どもは親が育てる」という理念に賛成するかどうかは別にして、日本では育児の責任が第一義的に家族と両親にあるという観念が強い、という現実があることは確かである。ヨーロッパにおける公的育児支援の充実は、親の子供に対する育児の責任が弱く、同棲婚出産など結婚・育児のスタイルも極めて多様な、個人主義的な社会であることを背景にしている。こういう社会では、政府が何もしなければ、世の中が浮浪児や不良青年であふれてしまうことはあまりに明白なので、社会の安定や治安のために公的な育児支援が充実する結果になるわけである。それに対して日本では、就職した後でも親と同居して生活費の面倒は見てもらっているというのは比較的「当たり前」の風景であり、政府が何もしなくてもある程度家族で負担を自発的に背負ってもらえるので、結果として公的育児支援(および民間のベビーシッター産業など)もさほど充実してこなかった。このように日本では親の育児責任の観念が強いため、親の人格や所得に関係なく子ども手当が給付されるべきという考え方がなかなか納得を得られず、むしろ「育児放棄している親」や「金持ちの親」にまで一律に現金が給付されるのはおかしい、という世論の反感がどうしても発生しやすい構造がある。

 だから子ども手当てを実行する際には、第1に税負担との対応を明示すること、第2にソフト面での政策を含めた育児支援の全体像を示すこと、第3に「社会で育てる」という場合の親・家庭の役割を再定義すること、などなどが必要であったと考える。第3の問題について言えば、早急に育児の責任を親から「社会」に移転しようとするのではなく、親同士の交流やコミュニケーションを活性化させて、それぞれの家庭で育児を孤独にこなしている現状をまずは解消するような支援の在り方を考えていくことである。つまり、同じように育児を「社会化」して負担の軽減をはかるのであれば、親を育児の責任から解放するという方向ではなく、親の育児責任自体は尊重した上で、まずは子どもよりも先に親自身の「社会化」を図っていくという方向性のほうが、日本人にとってより素直に受け入れやすいものになったはずである。ただし、以上は安定政権の下で長い時間をかけて取り組むべき課題であるので、今の民主党政権にその余裕は既にないと言わざるを得ないが。

 これはやや余談だが、山崎元氏のように、子ども手当てのような一律分配政策を官僚政治批判の文脈で評価する人もいるが*4、きわめてナンセンスとしか言いようがない。官僚の裁量があるべきかどうかは、第一義的には個々の家庭の育児負担が具体的に軽減されるかどうかで判断されるべきであって、官僚政治批判はまた別のステージで行われるべきであろう。山崎氏の文章には、子ども手当てが主題なのにも関わらず育児や教育の話が一行も出てこないように、少数ながら存在する子ども手当擁護派が往々にして育児・教育の問題にさほど関心のない人たちであったことも*5子ども手当て政策にとって極めて不幸なことであった。

*1:http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/180168

*2:既に批判されているように、これは「常識」では必ずしもない。一昔前は事実上、親族や地域といった広いネットワークのなかで子どもを育てていたし、貧しい家では子どものうちから余所の家に丁稚奉公などに行かされていた。「子どもは親が育てる」という観念は、伝統的なものをなにがしか引き継いでいることは否定しないが、基本的には「核家族」が家族形態の中心となった高度成長期以降に形成されたものと理解すべきである。そもそも、かつて自民党は「日本型福祉社会」を掲げていたように、福祉削減の方向性に立っていたとしても、個々の狭い家庭を超えた「社会」(地域と親族)で育児を広く負担すべきという発想に立っていたはずなのだが、いつの間にか個々の家庭に育児の責任を求めるようなものになってしまっている。

*3:そもそも緊縮財政政策というのは、政府の分配が減ってもさほど生活に支障が出ない程度の、「政治に真面目な(つもりの)」中間層や富裕層に非常に受けがいい傾向がある。特に子ども手当ては、直接的な受給対象ではなく、過去に公的な育児支援を受けた経験の乏しい高齢年金生活層にとっては、どうしても「バラマキ」に映りやすい。自民党は昔からの支持層の意見や心情を代弁しているに過ぎないという部分もあるが、若年世代を代表しているはずのみんなの党までが、こうした「バラマキ」批判に加担して支持の拡大を目論んでいる点に、日本における政治の閉塞感が象徴されていると言える。

*4:http://diamond.jp/articles/-/13687

*5:関心のある社会保障の専門家の多数は、現金給付よりも現物給付による制度的な再分配のほうが育児負担軽減に効果的であるという立場なので、子ども手当てに対する評価はそれほど高くないようである。

民主党政権が混迷している原因

 「ポスト菅」が誰になるのかという以前に、政局のニュースはもう聴きたくもないという人は少なくないと思う。とりわけ、「被災地の復興」の健気な姿の報道とのコントラストで、政治の混迷ぶりが余計に際立つ結果になっている。日本はどうしてこんなにも政治が混迷しているのか、(これをネタに飯を食っている一部の政治評論家を除けば)政治家自身も国民世論も全く訳がわからず、途方に暮れている状態にあると言っていい。

 民主党政権が混迷している原因はいろいろあるが、その根本をたどれば2009年の総選挙における、「脱官僚で16.8兆円を捻出」という非現実的な財政マニフェストにある。自民党から「バラマキ4K」などと批判されている政策も、「無駄削減で16兆捻出」を前提にしていた以上、その行き詰まりは当然過ぎる帰結である*1菅首相が急激に「財政再建」と増税論に舵を切り始めたのも、結局のところ「脱官僚による無駄削減で16.8兆捻出」が破綻したことに原因がある。この「転向」自体は間違いではないとしても、政権与党内の亀裂を深め、世論の「こんなはずじゃなかったのに」という政治への不信感を一層強め、内閣支持率の低下によって絶望的なまでの政局の混乱を招いている。

 「脱官僚による無駄削減で16.8兆捻出」などというのは、選挙前から財政や社会保障の専門家からは支持されてなかったし、また短期間における予算の急激な削減や組み換えは、社会の混乱を引き起こす可能性があるという点からも、決して好ましいものではない。その上、予算というものが指導者の独裁や官僚の裁量ではなく議会で決まるものである以上は、短期間における大幅な歳出削減は政治的にも著しく困難である。その困難は、「事業仕分け」の際に、ノーベル賞学者やスポーツ選手たちが予算の削減に強く抗議し、またそのことに「事業仕分け」を支持する世論ですら同情的な態度を示したことにも象徴されている。菅首相小沢一郎も、「脱官僚による無駄削減で16.8兆捻出」が現実に不可能であることを理解してなかったはずはなく、政権を獲得すればどうにでもなると高を括っていたとしか言いようがない。

 そうである以上、民主党政権の問題は、そもそも「脱官僚による無駄削減で16.8兆捻出」などという非現実的なマニフェストが、メディア上の討論や選挙戦の中で淘汰されることなく、むしろ好意的な目をもって迎えられてきた、という事実のほうにある。これが好意的に迎えられてきたのは、要するに日本の政治経済の問題の根源をすべて「官僚支配」に求める言説が力を持ってきたためである。つまり、日本でここまで経済停滞や社会保障財政が深刻化している原因は、日本の政治では政策がほとんど官僚主導によって裁量・決定されていて、しかもそれが「天下り」などの「利権」「既得権」の維持・確保を動機とし、そのために不必要な経済規制や官僚・公務員の高額な給与水準をもたらし、国民の自由な経済活動を阻害して不況をより深刻化させていると同時に、赤字財政の深刻化を引き起こしているというものである。「バラマキ」と攻撃されている政策も、分配が増えるのだから税負担を要求することは経済学的にも否定されないはずだが、そうならなかったのは*2、官僚が途方もない税金の無駄遣いをしているに違いない、無駄遣いを根絶しないと増税に国民は納得できない、という官僚不信の言説が大きな力を持っていたためである*3

 だから民主党政権運営に失敗しているとしたら、こうした「官僚支配」の図式で日本の政治経済の問題を理解することが、根本的に間違っていたと総括される必要がある。もちろん、官僚組織に対する継続的な監視や批判は絶対に必要であり、税金の使途の透明性確保は不断に追及されなければならないし、官僚が手練手管で「省益」を守ろうとする醜い姿も一面の現実ではあるだろう。しかし、少なくとも官僚組織の問題が同時に日本社会の根本問題であるかのように短絡し、そうした解釈図式に基づいて政策論を組み立てることが誤りであるということは、この2年近くの民主党政権の姿によって「実証」されたと断言してよいと思う。

 しかし、民主党政権に対する批判は膨大にあるにも関わらず、不思議なことに政権迷走の最大要因である「脱官僚による無駄削減で16.8兆捻出」が間違っていた、という批判はほとんど聞かれない。日本で、景気や社会保障などのあらゆる問題の根本原因を官僚組織に求める言説が、政権交替を引き起こすまでに力を持ってしまった理由については正直よくわからないところが多いが*4、こうした言説の跋扈が今の政治的混迷の原因の一つであることは疑いようがない。震災以降の政策論議を見ても、昔ながらの「官僚支配」批判が亡霊のように徘徊していることに、正直うんざりした気分になる。

*1:「バラマキ」でも構わないじゃないかと言う人も一部におり、それに共感できる部分も正直ないわけではないが、負担と分配の関係に慎重に気を配らないと、分配の恩恵を直接受けてない層の不満によるバックラッシュが怒涛のように起こってしまい、最悪の形で緊縮財政論が力を得てしまうことは、今の民主党政権が証明していることである。「バラマキで何が悪い」と言いながら、実際の「バラマキ」批判への対応を現場の政治家や官僚に押し付けているとしたら、極めて無責任な議論としか言いようがない。

*2:正確に言えば、子ども手当は扶養控除の廃止によって事実上の増税を行っているのだが、なぜか民主党はそういうアピールを全くしていない。子ども手当は、高所得者にも分配されるのがおかしいと批判されるが、それなら所得制限よりも所得税の累進強化で対応するのが、行政手続きの煩雑さを回避する面でも好ましいし、「子育ての社会化」という理念を強化することにもなると思うのだが、そういう主張が全く見られないのが残念である。

*3:日本で社会保障費の財源が税よりも社会保険の比重が高くなっているのは、要は官僚・行政に対する「無駄遣い」の不信感が強いため、フリーハンドに遣われてしまう税よりも「負担した分が確実に返ってくる」社会保険を結果的に選好してきたためである。

*4:本当はこれについて考察しようと思ったのだが、説得力のある仮説が立てられず途中で挫折してしまった。

何でも構わない

>id:dongfang99 争点化はどっちもどっちだと思います。緊縮財政については、そのことで効率性up→成長というパスが期待されたからだと思います。「増税で経済成長」は受容されないという事かと。


http://b.hatena.ne.jp/econ_econome/20110620#bookmark-47623574

 要は自分は、貧困・過労・失業などの問題の解決に真剣に取り組んでくれる人であれば、手段が税だろうと金融だろうと何でも構わないのである。自分が増税にやや好意的なスタンスにあるとしたら、これらの問題に直接取り組む社会保障論者の多くがそういうスタンスであり、その説明の論理を説得力があるものとして共有しているから、という以上のものではない。自分は完全に「復興」の段階に入るまでは、税と社会保障の話は混乱を避けて先送りすべきだと考えるが*1、そこまで激怒すべき話かと言われると、やはり疑問である。

 今のデフレ不況・震災下で緊縮財政・規制緩和を言っている人たちは、増税派であれ反増税派であれ、その中に経済学的正論が含まれているかもしれないとしても、以上の問題に冷淡であると言わざるを得ないし、実際そういう無神経な発言を過去にしてきた人の顔が何人かいる。もともと「貧困の経済学」を考えていた人たちが、「反増税」という手段のみで、こういう人たちと躊躇なく手が組めるというのが正直理解できない。

 「増税で経済成長」は、その字面だけをとれば「トンデモ経済学」であろうが、菅首相はもちろん、小野善康氏ですらそんな乱暴なことは言っていないだろう。正確には「増税よる財政出動・雇用創出による経済成長」である。もともと「財政出動・雇用創出」に力点のあった話なのに、批判者は「増税」ばかりを攻撃するものだから、小野氏自身も苛立って「増税」を前面に掲げるようになってしまった。小野氏の経済政策論には個人的にはあまり賛成しないが、緊縮財政派には「真意」を丁寧に理解してあげる一方で、菅政権には「増税で経済成長」というミスリードな要約を行って批判するのは、フェアな態度とは言えない。

 最後に、反増税派はより現実性・持続性のある財源論を提出することが、最低限の義務であるはずである。少なくとも、増税批判に興じてばかりいるのではなく、「財源がない」という圧力の下で暴力的に沈黙させられてきた、医療・介護・教育・労働の現場の人たちに、どのように財源が行き渡るのかを具体的に示してほしいと思う。

(追記)

 消費税増税は「税収を上げる」ためではなく、恒久財源である社会保障の安定財源を確保するため、そして国民と政府との間に負担と分配の関係を構築するためである。

 税収を上げるには、やはり「経済成長」が必要であることは言うまでもないが、少なくとも税収が上がらないから消費税増税が反対だ、というのは実証的にも大いに疑問だが(98年の税収減は法人・所得減税プラス金融危機というすごく単純な説明でなんで納得しないのか?)、そもそも論理としても根本的に間違っている。

 いま日本では根本的に教育・社会保障のための恒久財源が不足しているのは明らかだから、なるべく避けてはほしいが、分配が今より増えなくても増税すべきという理屈は、それ自体は間違っていない。本来は景気のいい時代にとっくにやっておくべきだったことを、デフレ不況プラス震災の現在において取り組まなければならないのは、本当に不幸としか言いようがない。

 「復興税」の話と混乱を招きやすい現段階では*2、「税と社会保障」の話は当面先送りすべきであると思うが、増税批判ばかりにエネルギーを注ぎ、「増税は景気を悪化させる」という論理が、結果的に「財源がない」で圧殺され、予算の節約が自己目的化している現場を見殺しにしている現実に無頓着な人には、心底憤りをおぼえる。

 「今そのタイミングではない」ではないというのは、専門家ではないのでそう断言できる根拠はよくわからないが、一応理解できないわけではない。しかし、そう批判している話を聞いていると、未来永劫そのタイミングはやってこない気がする。実際、バブル真っ盛りで超インフレだった時代の、89年の消費税増税ですら間違っていたと言っている人も見受けられる。もしこの評価に賛成している人がいるとしたら、いかなる増税も経済にマイナスだから原理的に反対であり、教育や社会保障は可能な限り市場やボランティアにゆだねるべき、と最初から正直に言った方がよいと思う。

(追記2)

 とにかく、震災復興でも社会保障でも、税の話が少しでも出てきたら、それを「増税」と一刀両断して政権自体を全否定する人が多すぎる。

 財務省や財政系の人たちの増税論が不愉快なのは自分も同じだが、それが彼らの「仕事」でもあるから、仕方がない面もなくはない。不思議なのは、他の人たちまでそうした財政脳な人たちの問題意識にクソ真面目に付き合って、いろんな目的や争点のある政策論を、とにかく「増税」に単純化してしまうことである。結果として、小野善康氏に象徴されるように、増税が必ずしも主題ではなかった人たちまで、熱心な「増税主義者」に仕立てあげてしまう*3。ご苦労なこととしか言いようがない。

 増税を主張している政治家の多くも、増税以外の財源調達手段があれば別にこだわらないと考えている可能性が極めて高いのに、現実的な代替財源をいつまでも経っても示さないまま*4、「財務省に洗脳されて増税一直線」のような物言いで全否定してしまう。一部の有名な経済学者は「またか」という感じだが、これに同調している人が案外多いようで少し驚いている。

 財源の話で、税が選択肢の一つになることは別に普通のことだと思うのだが、批判する側は選択肢の一つに上がったという報道を目にしただけで、なぜかその瞬間に頭が爆発し、現政権がひたすら増税を目指して邁進しているかのような解釈を下している。自分も税の話はなるべく禁欲したいのだが、こんな中二病的な政治理解や問題意識で税制が語られ、少なくない人が同調しているのは、さすがに我慢の限界という感じである。

 ちなみに、自分は緊急の復興財源はできるだけ公債で、恒久的な社会保障財源は増税(プラス保険料の累進強化)が筋だが復興が軌道に乗るまで当面先送りすべき、という立場である。おそらく他の多くの人たちも、増税については一義的な立場をとっているわけではないはずである。すべての政策論的立場を「増税反増税」に分断して満足できる人たちは、もっと頭を冷やせと言いたくなる。

(追記3)

@lakehill

dongfang99さんもhamachan先生も増税して社会保障を増やすべきと言っているけど、別に俺もいづれ増税するべきたと思っているよ。ただ今やることじゃないだろう?あと、お上を信用しすぎだろう、増税だけされて社会保障は増やさずという可能性もけっこうあると思うぞ

http://twitter.com/#!/lakehill/status/83848256735559680

 社会保障が増えない増税はなるべく避けてほしいが、正直に言うと、それでも増税しないよりはましという気持ちがある。

 というのは、全く増税をしないと、福祉の現場で「財源がない」でより我慢を強いられる環境が、さらに悪化していくことが確実だからである。福祉の分野は別に市場原理で動いているわけではない(また動かすべきではない)から、経済成長が現場の負担を緩和させるわけでは必ずしもない(逆に負担が増えることもある)。増税でこういう現場に手当てをすることと、金融緩和などで経済成長を後押しすることは、全く矛盾しない話だと思うのに(むしろ前者の負担を緩和するためにも後者が重要になるはず)、与謝野大臣もそれを批判する側も、全面的に両立不能であるかのように議論を持っていこうとするのは、一体全体どうしてなんだろうか。

 それに消費税増税が景気にマイナスだというのを認めるとして、その批判のレトリックばかりに頭をつかって、その代替財源に全く頭を使ってくれないのは、果たしてどういう問題意識に基づいているのだろうか。現状を見ていると、(消費税)増税容認派のほうが、まだ現実の問題に真摯に向き合っていると評価せざるを得ないと思う。

 あと「お上」が信用できるとかできないとか、そういう話に持っていこうとする人は、一体何なのだろうか*5。税を財源にした政策論自体を、「お上を信用しすぎ」などと言うのは、もう開いた口がふさがらない。「大企業」「資本家」のやることに、何かと「搾取」の臭いをかぎつけて因縁をつけたがる(さすがに今は少なくなった)左翼もそうだが、政府や市場がある程度健全に機能している、またいざという場合は国民の手で修正可能であるという状態を前提にしなければ、社会政策も金融政策も何一つ語れなくなるわけなのだが・・・。これは革命でもするしかないとでも言っているに等しい。

 それに繰り返すが、個人的には「税と社会保障」の話は、無理にいまやることじゃないという考えである。震災のドサクサでやろうしている人もいるようだが、これはとんでもないことだと思う。自分を「増税派」呼ばわりしても構わないが、申し訳がないがその期待には応えられそうにない。

(追記4)

 だから、政府が担うべき分野の恒久財源が不足している現場が明らかに悲惨なことになっていて、その財源の問題を真剣に考えてほしいと言っているのに、どうして頭のいい人たちが揃いも揃って増税批判ばかりに頭を使うのだろうか。

 「景気が回復するまで国債発行を増発する」とか、「所得税の累進率を強化する」という話を説得的にしてくれれば、自分もそれに乗っかることができるのだが(埋蔵金とかはさすがに論外だと思う)、反増税論者でそれを前面に掲げて議論している人は皆無だし、目下反増税の急先鋒である「みんなの党」は、国債所得税のどちらについても明らかに否定的だろう(人によってはそうでなくても支持者のクラスタを考えれば最優先に取り組んではくれないだろう)。

 インフレも資産家課税みたいなものという人がいるが、ちゃんと税であればそれで教育や社会保障の分野に対してきちんと予算を組めるが、インフレはあくまでお金をためておきたい人からどんどん使いたい人に回るというだけで(つまり既に金持ちになった人からこれから金持になりたい人に回る)、そのことが景気を底上げするという論理には説得力があるが、それは社会保障財源などの話とはまた別の問題である。

 というより、まだ膨大な瓦礫も撤去できておらず、いまだ11万人が避難所で暮らしている段階では、インフレの話も税と社会保障の話も、もう少し我慢すべきだと思う。自分も人のことは言えないが。

 それ以前に、反増税論者たちの「空気」が正直よくわからない。いったい社会の現実の何に対して怒っているのか・・・。

(追記5)

 非常にタイムリーな本が出ていたので紹介。 

 ざっとななめ読みした限りでは、反対するところは全くなかった。近年の「ムダの削減」論は経済にとってマイナスでしかなく、増税は必要だがデフレ不況を克服するまでは当面国債発行で、脱デフレについてはリフレーション政策で(「リフレ」とは言ってなかったが)という、個人的には非常に穏当で真っ当すぎる内容である。財政・社会保障・経済それぞれにちゃんと目配りがきいている。専門は理論社会学の人で、基本的に素人勉強なので細かい分析の評価は専門家のコメントを待ちたいが、社会学の(本来は)持っているバランス感覚が非常によい具合ででている。もう一回ちゃんと読んでみたい。

 以下のアマゾンのレビューには完全に同意である。

 経済畑の「これをすれば上手くいく」系の本は、社会福祉だとか市民の生活を軽視していたり、一つの理論に傾倒し過ぎてる事が多々ある。反対に福祉政策系の本は、経済・財政にあまり深く突っ込んだりしない。それぞれの分野のスペシャリストが、各々の主張を展開しているだけで、それらを統合する様な動きは総じて少なかった。
(中略)
巻末の100を超える参考文献の3割は新書。それが逆に、巷にあふれる情報を整理するのに役立つ結果となっている。私の様に趣味の一貫として、適当にこれ系の本を読む身としては、非常に助かる。

 というか、こういう建設的なことをちゃんと言ってほしいのに、「増税派/反増税派」の政局にして盛り上がりたいだけの人が多すぎると思う。

*1:とくに財政規律の論理が強くなっている傾向があることは警戒すべきだと考える。

*2:というか増税派も反増税派も意図的に混乱させている印象がある。

*3:これについては小野氏は確かに弁護の余地もない。

*4:あるいは考えてはいるとしても、それで文章を一本書くほど熱心ではないことは間違いない。

*5:信用できないとわめいている人たちのほうが、官僚組織に対して妙な幻想がある。自分は、他の先進国と同程度には「腐敗」しているというくらいの理解。

研究者はつねに素人からの横槍にさらされるべき

 個人的には、ひそかにネット上で最も勉強させていただいている方の一人のツイートであるが、非常に共感したので備忘録としてここに貼っておきたい。ちなみに抄録である。

分野によるが事実認識では素人や当事者が専門家より正確なことも多い。専門家の知識の偏りは大きいRT @naokimed: 自分の専門を持っている研究者にケンカを売ったり批判したりしている人をツィッター上で結構見かけるけど、(中略)ふつうは勝ち目がないし、争えば争うほど自分が恥をかく

http://twitter.com/#!/dojin_tw/status/79807704067084288

例えば社会保障研究する経済学者は社会保障財政には詳しいが目の前の高齢者や障害者がどの程度の介護・介助を必要とするかはわからないRT @naokimed: 専門を持っている研究者にケンカを売ったり批判したりしている人をツィッター上で結構見かけるけど(中略)ふつうは勝ち目がないし、

http://twitter.com/#!/dojin_tw/status/79811409109729281

承前:そしてそれに個々人がサポートされつつ翻弄される時代には、ごく狭い専門を持ってる研究者はつねに素人や当事者から横槍の批判にさらされるべき。そういうノイズ含んだ批判にさらされないこと、さらされてもスルーできちゃうことがむしろ研究者の弱みかと自分は思う。@naokimed

http://twitter.com/#!/dojin_tw/status/79816487321346048

承前:もちろん、研究者がノイズ含んだ批判や圧力からフリーでいられることは、自由に研究をする上で重要な条件でもあるからやっかい。研究者を変なノイズ・批判・圧力から守るということは、一方で、研究者を「現実を知らない」ナイーブな人種に育て上げることと表裏一体でもある。@naokimed

http://twitter.com/#!/dojin_tw/status/79817696270757888

承前:そのあたりのバランスの難しさ・複雑さの分析は「専門家に議論ふっかけても勝ちないし恥をかく」と一蹴することなく、それこそ社会学的な分析が(他のどの社会科学よりも)有効な領域の一つではないか。専門分化の波に乗りまくりの経済学でも不可能ではないがやや難しい。@naokimed

http://twitter.com/#!/dojin_tw/status/79819107905708032

専門家の世界のルールに従った特定の「思考」と「議論」の場に素人や当事者が赴いて参戦という話ならばそうでしょうが、それは一般的なケースでしょうか。RT @naokimed 専門的知識の量の問題だけでなく、思考と議論の技術が研究者は特段に高いということです。

http://twitter.com/#!/dojin_tw/status/79882576998825984

従って専門的訓練を積んだ学者が「思考と議論の技術が研究者は特段に高い」というのはあくまで彼らの(我々の)局所的な専門家ルールが成り立つ場の中だけの話であり、その外部(ツイッターも外部ですが)への一般化は難しいのではないでしょうか。@naokimed 

http://twitter.com/#!/dojin_tw/status/79885349437972480

 専門家の素人に対する応答が、自分たちの「学問ルール」に乗ってこないこと自体への不満や苛立ちといった、下手すると「日本社会に溶け込もうとしない外国人」への排外主義と似たり寄ったりの空気になってしまうことは、自分も嫌になるくらい目にしている現象である。今回、原子力工学という純理系の学問ですら(だからこそ?)、この澱んだ空気で充満していることがあらためて目の当たりになった。

 ただ、「社会学」がその隙間を埋める役割を果たすのかは、その役割を果たすと意気込んで(傍目には明らかに)失敗している社会学者を見ているので、正直なところ大いに疑問のところがある。社会学は経済学ほど素人からの反感を買う場面が多くないというだけで、やはり独特の学問的排外主義がある気はする。

「リーダーシップがない」にうんざり

 毎日聞かされる「リーダーシップがない」という批判に心底うんざりしている。本当によくわからないのだが、「リーダーシップがない」「だらしがない」という不満を持つ人は、「俺だったらすぐできる!」という自信があるからそう批判できるのだろうか。自分の場合、菅首相よりはるかに悲惨な姿になる結果しか想像できないのだが・・・。

 そもそも、「リーダーシップがある」という状態が、自分は今一つイメージできないのである。どこの国のどの首相や大統領が「リーダーシップがある」のだろうか。たとえば、小泉元首相はリーダーシップがあったのだろうか。彼は確かに国民的人気があり、それにぶら下がる自民党員はたくさんいたと思うが、党員の大多数がそのリーダーシップにつき従っていたとは到底思えない。むしろ、選挙に勝つための看板、お飾りくらいにしか考えておらず、心の底では小馬鹿にしていた自民党員も多かったことは、福田政権以降の経緯を見れば明らかだろう。

 実際、「リーダーシップがない」などという抽象的な批判ばかりが横行しているのは、今のところ菅政権に、これといった重大な失策がないことを証明しているにすぎない。震災対応の批判の内容も、「もっと素早くテキパキできねえのか!」という、クレーマーの主張と五十歩百歩でしかない。例えば義捐金が素早く分配されないのなら、その原因を分析した上でより効果的な対処法を提示すべきなのに、批判する側は菅政権の「リーダーシップの欠如」の一言で終わりである。結果的に、単なる「やる気」と精神論の問題に還元され、分配の基準となる家族の犠牲や住宅損壊の程度などの認定作業を必死で行っている、現場の負担ばかりが重くなる。

 ある政治評論家が、現状の政局の混乱を批判しつつ、「われわれからすれば政権を担う政党はどこでもいいんですよ、リーダーシップがあれば」という趣旨のことを語っていたが、本当に驚き呆れてしまった。当然だが、貧困・失業・過労の問題に冷淡で、子ども手当てなどを「バラマキ」と攻撃して「小さな政府」を掲げるような政治家であれば、「リーダーシップ」があろうとなかろうと自分は大反対である。そんな政策理念はどうでもよく、とにかく「リーダーシップ」が重要だという物言いは、ほとんど政治の放棄としか言いようがないだろう。

 しかし、石原慎太郎の4選など、とにかく政策の理念や内容などどうでもいいから「リーダーシップ」が欲しいという世論は、「3.11」以降確かにより強まっている気がする。個人的には、トップは少し頼りなさげで突っ込みどころが多いくらいのほうが、なんとなく日本人の気質に合っているし、全体のバランスをとる上で、余裕があって丁度いいという気がするのだが、どうなのだろうか。

(追記)

 それにしても、首相や閣僚の失言や不手際をつかまえて、問責決議案や内閣不信任案を提出すること自体が、国会議員にとって一つの「ルーティンワーク」化している印象がある。「被災地を無視した権力闘争」と批判されているが、それ以前に、エネルギッシュな権力欲自体が全く感じられないのである。もし外国の人に、「野党は何でこのタイミングで不信任案決議を出すのか?」と問われれば、「彼らがそれが国会議員の仕事だと思っているから」と以外に答えようがない。菅首相自身が、野党時代はこのルーティンワークの権化のような人だったわけだが、さすがに「もう馬鹿馬鹿しいからやめよう」という声が強くならないといけない。

(不信任案否決を受けて)

 「震災をダシにした政局騒ぎ」に対する憤りは自分にもあるが、それ以前に、菅首相の退陣を願う国民世論が根強くあることも忘れてはならない。「こんなダメな人物を首相に頂いている日本は絶望的だ」と、妙な被害者意識にはまっている人は実のところかなりいる。「震災をダシにした政局騒ぎ」と批判している人も、実のところそうである。

 正直言って、自分は世論が首相の何にフラストレーションを感じているのか、いまだにさっぱり理解できないでいる。逆に、震災直後の枝野幹事長の人気も、個人的にはよくわからないところがあった。何をこうすれば世論がついていく、というイメージが、野球の監督や小さなプロジェクトの主任ならまだしも、一国の総理となると本当にわからない。

 振り返れば、こうした「こんな首相だから日本はダメなんだ」という世論は、森政権にはじまるものであり、そして安倍政権以降のどの首相も、菅首相と同じような世論に直面してきたが、自分は共感・理解できたことが基本的にない。自民党の谷垣総裁も、首相だったらほぼ菅首相と同じ世論と党内の突き上げに直面していたに違いない。個人的に、小泉元首相に功績があるとしたら、政局の長期安定をもたらしたことであろうが(逆に言うとそれ以外は全く何もない)、派閥など安定化のための装置をみんなぶち壊したまま逃げてしまった感が強い。

 民主党というのは「反自民党連合」でしかなかったのだから、既に歴史的な役割は終えているのであり、早晩解体されるべきだろう。しかし個人的には、解体後の政局を想像すると、やはり当面は今の菅政権が続くのが一番よい、という結論以外にはおよそならないと思う。少なくとも、「リーダーシップ」「指導力」とかという抽象的で印象論的な批判しかできないなら、大人なんだからそれくらい我慢すべきだと言いたくなる。

 個人的に内閣が早く潰れてほしいと願ったのは、小泉政権後期ぐらいである。現役閣僚から「社会問題としての貧困はない」という正真正銘の「暴言」が飛び出して、それが全く問題にもされず、「改革で景気が良くなった」と自画自賛発言が飛び出しはじめ、教育と社会保障の予算は「自立支援」の名の下にどんどん削られ、あの頃は本当に怒りと絶望の毎日だった。正直言うと、安倍内閣参院選惨敗の時ですら、もう少し粘ってもいいんじゃないかと思っていたくらいである。政治というのは経験値が大きく物を言う仕事でもあるので、ようやく仕事を覚え始めたころに変えるというのはリスクが高い、というのが自分の考えである。

(最後に)

 今回の政局の混乱の根本原因が、震災後も続く「リーダーシップがない」「対応が遅い」「情報を隠している」という、世論のなかに巣食っている現政権に対する漠然とした不満や不信感であることは忘れてはならない*1。現政権(というか安倍政権以降の政権すべて)の悲惨なほどの「人気のなさ」こそが、国会議員を政局騒ぎに駆り立てる最大の誘因である。「この国難の時に日本にはなんでこんなひどいリーダーしかいないんだ」という被害者意識は国民の中に広く存在しているし、正直なところ自分自身も皆無とは言えない。

 だから、「リーダーシップがない」「対応が遅い」という、政権不信を煽るような批判を震災後も延々してきたマスメディアが、今になって「被災地を無視した政局騒ぎ」などと批判するのは、正直ふざけるなと言いたくなる。本当にそう思うなら、政局騒ぎはほとんどベタ記事扱いにして、現政権の震災復興政策を後押しするような報道に徹するべきだろう。政策論など全然勉強もしていない、政局にしか興味がない政治評論家ほど、「政局ではなく政策論を」「国民を馬鹿にした政局騒ぎ」と批判する傾向がある。

*1:またあらためて書きたいが、政局の混乱の根本原因をさかのぼると、1993年以降、政治理念や経済的利害の対立軸を制度化することに失敗して、各政党が「改革」のラディカルさや競争に堕してしまったことにある。

確かに一瞬納得してしまいそうな理屈

バカ教員の思想良心の自由よりも、子どもたちへの祝福が重要だろ!だいたい、公立学校の教員は、日本国の公務員。税金で飯を食べさせてもらっている。国旗、国歌が嫌なら、日本の公務員を辞めろって言うんだ。君が代を起立して歌わない自由はある。それは公務員以外の国民だ。


http://rocketnews24.com/?p=97259

 これを「正論」と思っている人が意外に多いようだ。確かに一瞬納得してしまいそうな理屈で、少し考え込んでしまったが、やはり間違っていると思う。

 橋下知事に対する疑問は、そもそも国旗・国歌は「国民」のものであって、それに敬意を払うべきなのは公務員も民間企業のサラリーマンも同じではないか、という点にある。サッカーの国際試合で、君が代が流れている時にブーイングを浴びせる人がいるとしたら、たとえ無職の人だろうと「失礼」な態度である。日教組の反国旗・国歌運動のやり方は自分も間違っていると考えるが、それは卒業式などの場を乱すという、基本的にこの延長線上の話であって、「税金で飯を食っている」からではない。

 「良心の自由」から批判している人が多いが、それも疑問である。個人的には、君が代斉唱の時に座っている人がいるくらいの「余裕」や「いい加減さ」はあるべきだと考えるが、それは「良心の自由」とは根本的に違う。内心で抵抗感を持ちつつ、とりあえずその場の秩序を乱さないように形ばかりは従う、ということは別に矛盾しているわけではない。

 よくわからないのだが、橋下知事は結局のところ、公務員が日本の愛国心を代表するべき特権的な職業集団だと思っているだろうか。あるいは、国旗・国歌は第一義的には公務員のためのシンボルであって、国民のものではないということなのだろうか。もちろん、そんなことは有り得ないだろう。橋下知事に限らず、官僚・公務員に民間とは全く異なる高い倫理意識を要求しながら、「民間の常識ではありえない」というダブルスタンダードを振り回す人が少なくない。