付加価値の高い労働と単純労働の区別

 日本人の「働きすぎ」はいろんなところで問題にされているが、そもそも付加価値の高い労働と単純労働を区別しなければならないのではないだろうか。

 政治家、エリート官僚、芸能人、プロスポーツ選手、文学者・画家、大学の研究者、大企業の経営者、プロの投資家といった人たちは(一言で言うと「勝間和代」みたいな人は)、ハードワーカーで全然構わないと考えている。これらの仕事は、自分自身でいくらでも付加価値をつける余地があり、「やりがい」や「充実度」もきわめて高い。そして、こういう有能な人たちは働けば働くほど社会全体の生産性も向上する。だから、こういう人たちは「働きすぎ」くらいのほうが、個人にとっても社会にとっても丁度いい。

 逆に、コンビニやファミレスの店長や従業員といった人たちには、毎日10時間以上も働かせてはいけない、というより何の意味もない。マニュアルに従うだけの仕事は、付加価値をつける余地がほとんどなく(「スマイル」のようなどうでもいいサービスばかりが増えるだけ)、仕事の充実度もかなり低いからである。そして死ぬほど働いたからといって、当の企業の人件費コストを少し解消するくらいで、社会全体の生産性が向上するわけではない。さらに、単純労働に従事している労働者にハードワーカーが多くなれば、社会全体がストレスフルで陰鬱な空気になることは火を見るよりも明らかであり、そうなれば「経済成長」にとっても好ましい環境ではなくなる。

 そもそも「構造改革」というのは、基本的にあくまで前者の付加価値の高い労働「だけ」に適用されるべきものであった。単純労働を厳しい競争にさらしたところで、そこから生まれる付加価値は、たかが知れているからである。しかし、日本ではむしろ後者の単純労働のほうが、真正面から「改革」の波を被ってしまった。現在のトヨタなどは、まさにこの矛盾の象徴であろう。つまり、経営層が海外のリコール騒ぎに慌てふためくという、ある意味で「なつかしい」風景が展開されている一方で、下請けの工場労働者はいつ首を切られて宿舎を追い出されても文句を言えないような、不安定で流動的な働き方を押し付けられているわけである。

 前々から不思議なのだが、諸外国では半ば無意識的にやっていると思われる、付加価値の高い労働と単純労働という重要な区別が、日本の経済論議ではほとんどなされていないように思われるのである。そして、テレビ司会者のような付加価値の高い労働に従事している人が、「こんなに働いているのに・・・」という被害者意識を剥き出しにして、非正規労働者に批判的な目を向けることがしばしばある。もちろん、「そんな区別は経済学的に意味がない」という専門家がいるかもしれないが、だとしたらぜひとも指摘していただきたいところである。